疲れて帰ってくると、家は良いにおいでいっぱいだった。いつもと同じに扉を開けて、いつもと同じに彼女を探す。まずは広間。料理の並んだ木のテーブルには、普段敷かないクロスが皺もなくピンと張られていた。彼女は飲めないはずのワインとグラス。適当に陳列しているのが常の食器は整列しているし、違和感があった。 心なしか小綺麗にもなっている広間を抜け、小さな厨房へ向かう。 ふわふわの栗毛。彼女はそこにいた。 「ただいま」 後ろから抱きしめる。 「……」 彼女は動じない。 器用に包丁を使い、分厚い肉を切り分けてゆく。 かまどの上に乗った大鍋はコトコトと音を立てていた。彼女から離れ、鍋の蓋を開けてみた。野菜のスープだ。 「これ、大好きなやつだ」 「でしょうね」 「ありがとう!」 「……どうということはないわ。貴方は向こうで待っていて」 言われるまま、広間へ戻って椅子へ腰掛けた。 もう一度その部屋を見回してやっと、今日は記念日か何かだったろうかと疑問が浮かぶ。誕生日ではないだろうし、はて、記憶していない。 揺らめかない燭台のろうそくの火を眺めているうちに、彼女が一枚の皿を手にやってきた。好機だとばかりに、尋ねてみる。 「今日は何かあったかな? 覚えていないのだけど」 彼女は視線もくれず、その皿を静かに置く。 「いやでも思い出すわ」 目を伏せ、厨房へ歩いてゆく背中がうっすらにじんで見えた。 目の前には豪華な食事と彼女がいた。ワインのコルクを抜き、鮮やかな赤をグラスへと注ぐ。物言わぬ彼女をじっと見つめた。ふわふわの栗毛。涙を隠して彼女に初めて会った日と、どこも変わらない。抱きしめてくれたあの日から、時間は進んでいない気がする。 グラスを差し出すようにして置くと、彼女は無駄のない動きで視線を投げた。 彼女が食事を促している合図だった。 「いただきます」 いつも、このテーブルを飾る料理は一人分。 整えられた食器の使い方も分からなかったので、気に入ったもの──今日は、スプーンを手にし、スープをすくった。 一口。 喜怒哀楽の喜と楽の欠落したような彼女が、微かに笑った。 「っ……」 胃が、食道が、いや、血管が、収縮するみたいな感覚と。 世界が褪せる。歪む。 息が詰まって嗅覚が失せた。触覚が消える。聴覚が狂う、耳鳴り。味覚が最後に反応したのは、生暖かい鉄の。 「もう、お帰りなさい?」 世界の崩壊していく悲しい響きが届こうとも、彼女の声は、聞こえなかった。 return (何処にかは貴方判ってるはずよ) top |