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「私、この絵が好き。なんて言ったらいいのかわからないけど、すごく、好きなんだ」
 そう言って目を細めた間宮このみの横顔は、腹が立つほど綺麗だった。
 夕暮れ時の美術室。彼女が見つめる先にはいつもと同じように一枚の絵が飾られていて、机に突っ伏したままの俺は不満たらたらだった。
 他の部員はいないんだから、少しくらい俺のことを気にしてくれたっていいのに。
 大きなキャンバスいっぱいに描かれた桜の絵は、一年前に卒業した生徒が置いていったものだ。素人目にも上手い絵だと思うけど、あの絵のどこが彼女の心を掴んだのか、数合わせの兼部員である俺にはてんでわからない。体を起こして、へー、と相槌。
 俺と話すつもりがないなら下手に声を掛けてくるなよ、と思った。
「俺はそうやって絵を見てる間宮さんが好きだよ」
 あくまでも自然に、深い意味はありませんよといった調子で口にした本音に、間宮このみが振り返る。その視線を嬉しいと感じても決して顔に出してはいけないから、努めて涼やかな微笑を浮かべて受け流した。ありがとうと答えた彼女は、あの絵に向けていたような表情を見せてはくれない。
 開けっ放しのカーテンから吹き込む風が冷たくなっていた。時計は六時を指している。
「もう帰らなきゃ。鍵はよろしくね、伊織くん」
 美術室の鍵を受け取ると惜しげもなく去っていった間宮このみは、きっと、この先ずっとあの絵に夢中なのだろう。俺と二人でいたって、会話らしい会話もしないまま、こちらを向いてくれることなどないのだ。
 溜め息を吐いて立ち上がる。さっきまで彼女がいたところに移動して、例の絵を見上げた。
「変な絵」
 満開の桜を描いているのに、青い絵の具ばかり使うなんて。こういうのが芸術というものなのだろうか、と何度めになるかわからない感想を抱く。
 間宮このみはこの絵を好きだと言った。タイトルも付いていない、青い桜の絵を。
 その絵を描いた卒業生と俺の兄貴が親友だって知ったら、どんな顔をするのかな。
 クロッキー帳を手にいつまでもあの絵を眺め続ける彼女の姿を思い出して、俺はぐっと右手を握った。
「つまんねえな」
 ぎざぎざとした鍵の感触が食い込んで痛かった。

 間宮このみの横顔は今日も綺麗で、ああ、敵わないなあと苦笑しながら美術室の扉を閉める。あの絵の中心から少し右にずれた場所が彼女の定位置で、俺もいつもの席に着こうと足を踏み出した。いつもの席というのは彼女の様子がそれとなく窺える特等席で、俺は今日も気怠げに突っ伏して、それで。
 それで?
 踏み出した足がそれ以上動かなかった。
「そんなに好き?」
 嫉妬の滲む声を呆れたふうに装うと、間宮このみがこちらを見る。夕陽に照らされた細い髪が金色に輝いて、憎らしいほど爽やかな秋風にさらりと揺れた。
「うん。大好き」
 聞かなければよかったという後悔が一気に広がって、俺はとっさに笑うことができなかった。慌てて視線を落とせば、音もなく近付いてきた間宮このみが不思議そうな顔をして覗き込んでくる。
「どうしたの? 伊織くん」
「え、っと」
 距離を取るために後退ろうとした俺は、自分で閉めたばかりの扉に背中をぶつけて逃げ場を失った。態勢を立て直そうにもこれでは分が悪く、どう返事をしたものかと逡巡して、頭が真っ白になる。どうしてわかんないんだよ、なんて弱音が漏れる前に、二の句を継がなければ押し負けてしまいそうだった。
「お、俺、間宮さんのそういうとこ、好きだよ」
 精一杯の笑顔を浮かべていつもの方向に舵を切る。矛盾した感情に心の中を滅茶苦茶にされながら、それでも平穏を選び取ろうとした俺を、間宮このみはきょとんとした瞳で見つめていた。
「ありがとう」
 変わらない答えにほっとして肩の力を抜いた俺は、
「私も、伊織くんのそういうとこ好きだよ」
 不意打ちの一言にうっかり固まった。何が起こったのか理解した頃には自分でもわかるほど真っ赤になっていて、その熱を下げる方法は知らないし、今になって何を取り繕うこともできないから観念して礼を言うしかなかった。「あ、りがと」
 うん、とうなずいた間宮このみがいつもの鑑賞場所に戻っていく。彼女に背を向けた俺は胸元に手を当てて動悸を抑えるのに必死だった。不覚だった。
「ほんとに素敵。私もいつか、こんな絵を描きたいな!」
 ちらりと盗み見た彼女の笑顔はいつにも増して愛らしくて、俺は何だか気抜けしてしまった。あどけなく笑いながらこちらを向いた間宮このみは心底嬉しそうで、俺は自分が致命的な思い違いをしていたことに唖然とする。
 あの絵を眺めているときより退屈そうにされたら、とか。俺が話し掛けてもつまらないんじゃないか、とか。そういう臆病な気持ちを価値観の違いのせいにして、上っ面だけの関わりしか持とうとしなかったのは誰だったんだろう。彼女のことを自分本位に決め付けて、わからないなんて諦めて、理解しようとしなかったのは。そんな情けないことに今の今まで気付かなかった、どうしようもない男は誰だ?
 申し訳なさと恥ずかしさがないまぜになってすぐにでも逃げ出したい衝動に駆られたものの、それではこれまでと変わらない。そういう気持ちがあるのなら、きちんとこの場で清算するのが筋ってものではないのだろうかと、俺は懸命に自分を律した。
 意を決して彼女のとなりに並んだ俺は、勝手に緩む頬を誤魔化すことなくそのまま笑った。
「うん。間宮さんなら、きっと描けるよ」


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