「う゛ー……」 少年は唸っていた。草むらの中に這いつくばり、遠くに聞こえる街の喧噪に大きな耳を傾ける。 彼がいるのは街の外れの黒い森の中。街の住人たちは人食い狼が出ると言って容易に近付かないその場所が、彼の住み処だった。 見た目は十四、五歳ほどのその少年がなぜそんな危険な所に一人で転がっているかというと、 「う゛う゛っ。おなか、へったなあ……」 ぐぎゅうと鳴った腹の虫の音が説明してくれた通りだ。 少年の名前はジン。人間に造り出された狼人間だ。 彼の体は焦茶色のもふもふとした毛に覆われており、手足は並みの人間よりもがっしりとして大きく、その造りはヒトのものというより獣のものに近かった。そしてまるでその後押しをするかのように生えた三角耳ももふもふと大きく、その位置も頭の上のほうにあるということで、獣さながらである。当然のように尻尾も生えていて、鼻の形もどちらかというと獣寄りだった。 だらんと開いた口から覗く歯も鋭く、顔付きにはまだヒトらしさが残っているものの、この姿で人里に食料を求めに行くのは難しいのだ。 極め付けは普通の人間の耳が生えているはずの場所に刺さった巨大なネジだ。双方にそれぞれ一本ずつ、頭にしっかりずぶりとめり込んでいるそれは、不気味以外の何物でもない。 「ネズミの一匹でも通ってくれればなあ……」 ぐったりとしたジンが力無くつぶやいたそのとき。 ざくざくと、地面を踏みしめこちらにやってくる、誰かの足音が聞こえてきた。ふわりと鼻孔をくすぐる、ジンの大好きな甘いにおい。 「レベッカ!?」 日が暮れていたってわかる。空腹など忘れたようにがばっと起き上がれば、そこには年に一度だけ会える、彼の友達の姿があった。 内側だけが夕日の色をしている深紫色のケープに、白いブラウスと短いスカート。ボーダー柄のサイハイソックス。履いているブーツも見紛うはずがない、彼女のものだ。 「レベッカ!」 ジンは喜び勇んで草むらを飛び出し、その人影にがばっと抱き付いた。 何年か前に出会った、体の左半分を包帯で隠した甘いにおいのする少女。彼女は名前をレベッカといって、ジンと同じ金色の瞳を持ち、年に一度だけこうしてジンの元を訪れてくれる彼の友達だった。近くの街で行われているハロウィンという祭りの日に合わせてやってきて、人間たちが楽しんでいるような怪物の仮装を二人でし、人里に降りてお菓子をねだって歩くのだ。 今年もそうするのだろう、彼女の腕には二人分の衣装が抱えられている。 しかし、それはそれとして、ジンはレベッカに付けてもらった自分の名前を呼んでもらえることが何より楽しみだった。これまでに過ごしてきた時間は相当なものなのに、彼女と別れて一年、待ち続けた時間のほうがそれよりずっと長く感じるほどだ。 「レベッカ? ほら、ジンだよ!」 彼女が何も言わないことにやきもきして、ジンは思わず口を開く。それでも答えは返ってこない。 「レベッカ……? レベッカ? あれ?」 もしかして名前を間違えているのかと思ってくっつけていた体をとりあえず離すと、ジンは固まった。 「れ、れ、レベッカあああ!?」 彼女の首から上に、何もなかったからだ。 「レベッカ! レベッカ頭どうしたの!」 ジンの腕から解放された首無しの体が地面をざくざく踏みながらどこかに行こうとするので、彼は慌ててその右手を取った。 彼女がレベッカなのは間違いないはずだ。身体的な特徴も、甘いにおいも、ジンのよく知っているレベッカそのものだったから。けれど、飴色のふわふわした髪の毛も、金色の瞳も、突き放すようでいて優しい低めの声も、頭にくっついているものが何もなかった。どうしていいのかわからなくて途方に暮れていると、彼女の右手を掴んでいた左手がぎゅっと握り返される。 「レベッカ……?」 ぐいと引っ張られてよろめき、レベッカを巻き込みながら前のめりに転んでしまった。彼女を下敷きにしたままぱったりと動けなくなる。 (ダメだ。体に力が入らない) ジンがそうして呆然としているうちにレベッカは立ち上がり、彼を置いて夜空の下を歩き出そうとした。 (いやだ!) 「待、って……っ!」 絞り出した声が届いたのか、レベッカが足を止める。いつも一人きりのジンは誰かと話すのに慣れておらず、続けるべき言葉をとっさに見つけられない。焦りだけが募り、ぐぎゅるう、と腹が鳴った。肉、電気、なんだっていい。何か摂らなければ。 瞬間、目の前にぼとぼとといろんなものが落ちてきた。透明な袋に包まれた棒付きキャンディやカップケーキ。パイ、タルト、クッキーにマカロン、チョコレート。フロランタンやドーナツまである。あっという間にできあがった食べ物の山に手を伸ばそうとしたものの、完全なエネルギー切れを前に、ジンは無力だった。 指先一つ動かせずに絶望していると、半開きだった口に何か押し込まれた。 「う゛ぐ! う゛ぐう゛ぐ……う゛う゛?」 柔らかな舌触りに、甘ったるい砂糖の味がじわりと広がる。 見上げると、レベッカの摘んだマシュマロが次から次へと放り込まれてきた。彼女の手から与えられるお菓子を無我夢中で食べると、少しずつ力がわいてきた。 やがてむくりと起き上がり、口のまわりをべろりと舐めて目を細める。わしゃわしゃと頭を撫でられて、千切れんばかりに尻尾を振った。 差し出された右手を取った。二人は手を繋いで、ジャックランタンの明かりが灯る街とはまるで反対の、真っ暗な森の中に踏み出した。 *** 「抜かったわね」 一方そのころ、生首のほうのレベッカは、顔にかかる水にうっぷうっぷ言いながら星月夜を眺めていた。呼吸をして生きているわけではないのでそれが苦しいということはないものの、だからといって、容易に受け入れられる状況でもない。耳元を流れる水音がうるさくて、レベッカは小さくため息をついた。 街外れにある黒い森の奥の奥、人間が決して立ち入らないような場所にレベッカは一人で暮らしていた。木の根元に掘られた、元は熊穴だったところを自分の住みやすいように改造し、極力外出しなくてもいいようにしていたのだ。 彼女はヒトの形をしているけれど、人間ではない。包帯で隠している体の左半分は干からびてミイラと化しており、右半分は生きた人間と変わらないように見えるだけで、温もりを持たないのだ。尖った耳と歯が特徴的で、少量の血液を摂取すれば活動することのできる存在――吸血鬼、だった。 彼女の密かな楽しみは、年に一度のハロウィンで、人里に下りて人間に紛れることだった。そのときばかりはまるで彼らの仲間になれたようで、永い時を過ごす孤独な彼女にとって、それは唯一の慰めみたいなものだった。 そして、二年前からはそこにもう一つの楽しみが加わった。偶然見つけた造り物の狼人間と、友達になったのだ。 世間知らずの彼はレベッカと同じように森の中で生活していた。名前もなく、ハロウィンも知らずにずっと窮屈な思いをして、一人で腹を空かせていたのだ。レベッカの巻いた包帯を見てけがの心配をするような優しさと、誰かと関わりたいのに特異な性質のせいで躊躇ってしまうような寂しさが、どうしても放っておけなかった。 それからレベッカはハロウィンの日になると彼を連れて街に下りるようになった。今年もそうするつもりで住処を出たのだけれども……。 彼女が今いるのは黒い森を流れる川の中流だった。それはもちろん本意ではなく、上流から流れ流れて岩場に引っかかり、何とかここでとどまっているだけの話だ。切り取られてしまった首から上、長い髪の毛を漂わせた生首が水流にもまれている姿はホラーでしかない。 抜かったのだ。森の奥には獣だって住んでいるのに、うっかり縄張りに入ってしまって、その爪に思い切り引き裂かれた。よりにもよって急所をだ。撥ねられた首が近くの川に落ちたときは、どんどん離れていく体を見送るしかなかった。 普段のレベッカならありえないミスをしでかしたのは、この特別な日に完全に浮かれていたからだ。自分を見つけた途端にうれしそうに笑ってぶんぶん尻尾を振り、犬のように飛び付いてくる少年に早く会いたくて。 こうなってしまっては元も子もないというのに。 「あの子には悪いけど、また来年ね……」 独りごちて、またため息。年に一度しか会わないと決めて、別れを惜しむ彼に約束を与えたくせに、もう破ってしまうなんて情けない話だ。幸いにも彼はまだレベッカの手の冷たさに気が付いていないし、怯えられて拒絶されるようなこともないままでいられたのに。 頭だけでは何もできない。体のほうに見つけてもらうまでどのくらい掛かるかわからないけれど、下流に流れ着いて街の住人に発見されるなんてことがなければいいと思った。埋葬される分には構わないけれど、体と出会うまで時間が余計に掛かるのは面倒だから。 ジンは今年も空腹で行き倒れているだろうか。それが気掛かりで服に忍ばせていた数々のお菓子だけでもあげられたらよかったのに。 ざあざあ鳴る水音を諦めて目を閉じた。細く尖った月の色は、あの金色は、ジンの瞳とよく似ている。会えると思っていた相手に会えないことが、こんなにつまらなくて虚しくて、手に余るものだなんて考えもしなかった。 生きているわけではないレベッカは睡眠を必要としない。まぶたを下ろしたところで意識が遠のくことはないし、もちろん夢だって見ない。だから、そこで彼を見つけることもないのだけれど。 「レベッカ?」 聞こえた幻聴にふっと微笑んだ。 「レベッカだあ!」 「っきゃああああ!?」 ざばっと音を立てて急に持ち上げられたので驚いて目を見開いた。まんまるな金色が二つ、至近距離でレベッカを見下ろしている。 「えっ!?」 「えへへ。こんなところにいたのかあ」 そこにいたのは全身ずぶ濡れのジンだった。前髪からぽたぽた滴ってくる水が右目に入る。何が起こっているのか理解できないまま忙しなく視線を動かすと、レベッカが引っかかっていた岩場があるのと逆の岸に、自分の体が立っているのが見えた。 突然現れたジンに抱えられて川を渡ると首の上に頭を乗せられそうになったので、体のほうは両手を前に突き出して拒否、生首のほうも「待って!」とそれを止めた。 「えっ、なんで?」 「髪が濡れてるからよ。乾かしてからでいいの」 ジンの手から生首を受け取った体のほうのレベッカが近くの岩の上にそれを置くと、長い髪の毛を絞って水気を取った。今年のために用意していた自分用の衣装で顔や髪を拭いていくとなりで、四足で立ったジンが首を振るように全身をぶるぶるさせて水を飛ばす。 「これを使いなさい。濡れた服は脱いで」 岩の上でくつろぐ生首の声に合わせてレベッカの体が余っていた衣装をジンに渡した。 ジンが四苦八苦しながら着替えている間に、ある程度乾いた生首が体に乗せられた。切り口など元からなかったようにすっとくっついて、レベッカは調子を確かめるようにぐりぐりと首を回す。 体のほうの事情はわからないけれど、どこかで彼に行き合って、二人で生首のほうを探してくれていたということだろう。それ以外に状況の説明がつかない。 どことなく居心地が悪くて何も言えないでいると、着替えを終えたジンが自慢の手足で地面を蹴って駆け寄ってきた。 「レベッカ! レベッカ!」 飛び付かれるかと思って身構えたレベッカの前で、ジンは急停止する。微妙に空いているその距離に、レベッカの動かない心臓がちくりと痛んだ。 自分を見つめる金色の瞳が目にしたものを考えれば、それも当然のことなのに。体が冷たいことより決定的なレベッカの異質さを、知ったのだから。 彼は心優しいから、表立って突き放したりしないだけだ。それがより一層、つらかった。 「……驚いたでしょう? 首が離れても動いているなんて」 ぴっと耳を立てたジンの瞳が、ゆっくりしばたかれる。レベッカは、今さら遅いのに、泣き出したくて仕方なかった。大きな口が開いて、そこから発せられる言葉が恐ろしくてたまらなくて、聞きたくない気持ちを抑えるのに必死だった。 *** 「格好いいよ!」 やっと見つけた友達が悲しそうな顔をしていることに気が付いて、ジンはとっさに叫んでいた。何年か前に初めて会ったとき、頭に突き刺さったネジを怖がらずに褒めてくれたことがうれしかったから、だから、レベッカにも喜んでほしくて。笑ってほしくて。だけどどうしていいのかわからなかったから、ジンは後ろ足で立つと彼女の両腕を捕まえて、思い切りその顔を舐めた。 「う、えっ」 驚いてバランスを崩したレベッカがその場に尻餅をついたのも構わずにジンはじゃれつくのを止めない。 「ケガは? もういい? 舐める?」 「舐めない! 重い! どきなさい!」 「きゃうん?!」 少女らしからぬ凄まじい力で持ち上げられて文字通り宙を舞ったジンは、くるりと回転して受け身を取った。川を背にこちらを睨んでくるレベッカの金色の瞳は、夜に輝く月みたいに今日も頼もしい。 「あんたってやつは……」 困った顔でごしごし頬を拭う姿に言い知れぬ安心感が広がった。お腹がいっぱいになったときのように幸せな気持ちで笑うと、レベッカも微かに笑った。 尻尾を振りながらそろそろと近付いて、ぴったりとなりにくっついた。ジンはレベッカの甘いにおいが大好きだ。ずっと一緒にいたいけれど、彼女は今年もどこかに消えてしまうのだろうか。約束の日を待つのも楽しいものだなんて言って。ジンは到底そんなものでは満足できないのに。 頬をすり寄せていると鬱陶しそうに押しのけられた。それが面白くて何度も同じことを繰り返していると途中で諦められた。 「この時間から街に下りるのは難しいわね」 傾きかけた月を眺めてレベッカがつぶやく。昨年のハロウィンで訪れた賑やかな街並みは絶対に忘れられないほどきらきらまぶしかったけれど、人混みに酔ってしまったし、レベッカとはぐれそうになったときは心細かったものだ。 「……私のせいで、ごめんね」 「う゛? なんで?」 「いや、だから、街に下りられないからよ」 レベッカの言っていることと彼女が謝ることの関係がいまいちわからなくて首をかしげる。そんなことより、もっと他に重要なことがあった気がするのに、ジンはそれが何だったのか思い出せなくて「う゛う゛?」と唸った。 「お詫びに、用意したお菓子だけでも……って、あれ? これしかない……」 「わかったあ!」 「え?」 「ジンだよ! レベッカ! ジン!」 「え?」 「名前! 名前、呼んで!」 粉砂糖をまぶした焼き菓子らしきものが入った袋を手に唖然としているレベッカに鼻を押し付けて詰め寄る。 「名前……? ジン?」 「えへへ。もう一回」 「ジン?」 「えへへへへ」 しまりなく笑っていると、口の中にぽいっと焼き菓子を放り込まれた。ほろほろっとほどけるような口溶けにびっくりする。 「ジン。ポルボロンって、三回言ってみて」 「ぽるぼろん?」 「あと二回」 「ぽるぼろん。ぽるぼろん」 「よし。トリック・オア・トリート」 「えっ」 レベッカにあげられるお菓子なんて持っていないジンは、にやりと微笑んだ彼女にくすぐられてその場でのたうち回った。 そうしてふざけ合いながら、二人だけのハロウィンはしんしんと過ぎていく。きっとすぐに別れの時間がくることはわかっていたけれど、それを引き止めたい気持ちをいっぱいに抱えながら、ジンは今年こそレベッカと向き合って手を振ろうと思っていた。 レベッカがそうしたいようにさせてあげたいから。彼女のことが大切だから、また会おうねと言って、笑顔で手を振ろう。お菓子につられている間にどこかに行かれてしまうなんて、そんなへまはしないように。同じ約束を楽しみにできるように。 二人はずっと笑っていた。 top |