スティーブンの顔の傷について、何があったか知る者はいない。それはレオナルドも例外ではなかった。一度、その傷って戦闘でついたんですか?と聞いたことがあるが、軽く上唇を吸われるキスをされて「かっこいい?」と囁かれて話題を流されてしまった。
そういう男だ。スティーブンには秘密が多い。
誕生日や血液型を知っても、おそらく知らないままでいることは山のようにある。例えば、レオナルドは彼がどうやって情報を集めてきているか知らない。ザップやK・Kは思うところもあるような素振りをするが、レオナルドにそれを教えてくれはしない。
それはおそらく、レオナルドがスティーブンの恋人だからだということが大きいのかもしれない。恋人に教えられないやり方っていうと、あまりいい想像はしない。
そしてそんなスティーブンとレオナルドだから、このたびの結婚を各方面から考え直せと言われまくっている。
クラウスとギルベルトはお祝いをしてくれるが、K・Kなんかは発狂しそうなくらい荒れた。チェインは、恋敵であったのであまりその話題について触れない。ザップとツェッドはそろって心配があるならちゃんと周りに相談しとけと釘をさされた。なにか盛大な勘違いをされている気もする。
ライブラの事務所で、スティーブンは前起きなくレオナルドにその紙を渡してきた。
「書いといて」
「はーい」
仕事の書類だと思ったのは一瞬で、ぱっと見て、スティーブンの名前を書くところとレオナルドの名前を書くところがある。その他生年月日やらなんやら細かい個人情報。
お役所に提出する類の書類だ。
「えっこのタイミングで!?」
「うん。先にやっとこうと思ったんだ」
まるで事務処理だなぁと思いながら項目を全て埋め終えて、ざっと上から書類を眺めていく。そこでレオナルドはようやく、その紙が自分の思っていたものと全く違うものであることを知った。
「……スティーブンさん?」
「書いた?」
「これ離婚届じゃないっすか?」
「おいおい、なんだと思ってたんだい」
「いやてっきり婚姻届だと……っていうか僕らまだ結婚してないんですけど!? なんで離婚届!?」
スティーブンは、婚姻届は2人っきりで書きたいねなんて言っている。そういう問題ではない。
ここはライブラの事務所である。常駐でありその場にいたクラウスが離婚届の単語にびくついている。2人の結婚を手離しで祝福してくれた唯一の知り合いといっていい彼は、結婚より先に離婚の単語が飛び交う恋人たちをおろおろと見守っている。心配しすぎてだんだん顔が怖いことになっていっている。
スティーブンはマイペースにレオナルドが書いた書類を眺め、それこそ仕事の書類と同じように「オーケー、ミスなし」と確認をした。実に事務的である。
彼はそれを三つ折りにすると、重要書類と判をおした封筒にいれて、そのままクラウスに渡してしまった。
「はいクラウス、預かっといてよ」
「ス、スティーブン? これをどうしろと」
「どうもしなくていいよ。ただほら、結婚生活は何があるかわからないだろ? もしものためさ」
友人や恋人とはまた違う関係になる。常に一緒にいるというのは結構大変だし、趣味や些細な齟齬が苦痛になるケースだってある。負担になるくらいなら別れた方がいいけど、喧嘩の延長のはずみで離婚するのは避けたい。
その点クラウスに預かっておいてもらえれば、苦しい時には相談役になってくれるだろうし、スティーブンもレオナルドも一旦冷静になる。
「君には僕らのセーフポイントでいてほしいのさ」
「そういうことならば承知した。レオもそれでいいだろうか?」
そっちのけで進んだ話に、突然同意を求められてレオナルドは頷いた。ええはいお願いします。レオナルドとしては、離婚届を書かされたあげくクラウスに預けられると言う事態にいまだ混乱している。
クラウスは封筒をそっと引き出しにしまうと、まだ結婚もしてない2人をまっすぐに見てきた。
「私が預かっている限り簡単に2人を離婚させはしないだろう。苦難は三人で乗り越えていこう」
その言葉で、レオナルドはスティーブンの思惑をようやく悟った気がした。確かにクラウスは簡単に離婚届を渡しはしないだろう。というより断固として渡さないだろう。別れようとするのは面倒くさいというより不可能ミッションだ。
「ただ、私がもし本当にこの書類を渡さなければならないような事態が君らにおこっていれば、その時は了承も得ずに提出するだろう」
「さすがだ、頼もしいよ」
まじめ一徹のクラウスが離婚させるような事態ってどういう事態だ。あり得ないだろう、怪訝な顔で首を傾げるレオナルドの思考を遮ったのは、携帯のバイブレーションだった。
はっと時計を見ればもう夕刻だ。メールの内容を確認すれば案の定K・Kだった。今日はライブラ女性メンバーでレオナルドの独身最後のバチェラーパーティーがある。本当は結婚式前夜にするものだったが、ライブラでは都合がいいときにやっとかないと次にいつできるか分からない。
もっともハメをはずすことが苦手なレオナルドにあわせて、今日はどちらかといえば単なる飲み会、むしろ女子会だ。
「僕もう行きますね」
「今日だけは飲みすぎを見逃そう。明日は婚姻届のほうを書こうな」
「もう! 順番めちゃくちゃですよ! じゃ、いってきます」
クラウスとスティーブンはもう少し仕事が残っている。スティーブンの方のバチェラーパーティーはまた別の日だ。
パーティーですらレオナルドは本当にスティーブンでいいのか、考え直せと言われた。一部では狙ってたのに!という声も飛んでくる。ライバルはチェインだけだったと思ってたレオナルドには寝耳に水だった。
「そんなこと新婦にいうんじゃないわよ! レオっちの幸せ邪魔する女は鉛玉打ち込むわよ!」
K・Kがこういうキツイ発言をするのはめずらしいが、彼女もやはり酔っている。彼女は羨ましいほど細く長い手をレオの首に巻き付け、顔を寄せる。真っ赤になっても美しく、唇を尖らせてるのがかわいらしい。
「レオっちもね、スカーフェイスが嫌になったら即離婚よ、離婚。できないようなら私があいつ殺してやるわ」
「うーん僕としてはK・Kさんちみたいになりたいんですけど」
「んー、レオっちとあいつがねぇ」
K・Kはスティーブンに当たりがきついところがある。仲が悪いわけではないと思うのだが、なにか気に食わないことがあるらしい。レオナルドの幸せを喜びたい反面で、彼女は隠しようもなく不安でいるようだった。
「K・Kさんは、スティーブンさんと何かあったんですか」
「いやーそういうわけじゃないのよ。単に馬が合わないっていうか」
「ちゃんと教えておいてください」
ね、先輩。ちゃめっけを含ませていうも、K・Kはむっつり黙ってしまう。酔ったとしても口は重たいようだった。
それでも、やっぱりアルコールの力だろう。しばらくして彼女はぽつりとつぶやいた。
「私が妊娠したときよ。言われたわ、あいつに」
君、子供を殴るのか?
「かわりにあの傷面ぶん殴ってやったわ」
「……スティーブンさん、どうしてそんなこと」
「さぁね。その時はあいつに腹がたってしょうがなかったけど、後から考えるとあいつにも何かあったのかも。親は子供は殴るようなもんだって思っちゃうような何か。そういうの肯定的って態度じゃなかったし」
度数の高い酒をいっきにあおったK・Kにならって、レオナルドも強いものを一息に喉に流し込んだ。
スティーブンには秘密が多い。誕生日や血液型を知っても、おそらく知らないままでいることは山のようにある。そういう男だ。
例えば、レオナルドは彼の顔にどうして傷がついているのか知らない。誰も知らないのだ。
さきほど事務所で、彼はクラウスに離婚届を託して、クラウスはそれを受け取った。簡単に2人を離婚させはしないだろう、そう言って。
けれどこうも言っていた。私がもし本当にこの書類を渡さなければならないような事態が君らにおこっていれば、その時は了承も得ずに提出するだろう。
クラウスが離婚させるような事態――スティーブンがそれを頼もしいと言って、危惧している何か。
酒のせいで喉が焼けるようだった。きゅうと狭まった気道が苦しい。
「K・Kさん」
「なーに」
「やっぱり僕、K・Kさんちみたいになってみせます。絶対に。優しいパパと、頼もしいママ。だいすきな子供――そんで親馬鹿」
そういう形を作りたい。
「……期待してるわ」
「まかせといてください。絶対、子供の参観日にはスティーブンさん泣かせて見せます」
レオナルドは帰って彼を抱きしめたかった。ともにベッドに沈んで、そうすれば十月と十日できっと彼に幸福を与えられる。
そうしてスティーブンに教えてあげるのだ、彼が書類一枚に込めた怯えなんてくだらないって。
150812
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