春になって暖かい日差し――が、外界では降り注いでいることだろう。残念ながらHLでは日光と無縁だったし、日光が無縁ならば道端の草木も心なしか元気がなく、花が咲かなければ蝶や蜂といった昆虫もみかけない。かわりに視界を横切って飛ぶのは異界さんのちょっとグロテスクな虫たちだ。猛毒をもっていたり、知能が高く盗難を働いたりするから油断がならない。
 ごった返す歩道を歩きながら、スティーブンはひょいと左へ半歩ずれて異界人の肩を避ける。体格的に劣るヒューマーを狙うカツアゲは後を絶たないが、よほどのバカでない限り、向こうだって獲物のヒューマーを選別している。顔つき、足運び、身のこなし、などなど。
 スティーブンは物色するような視線を感じたことはあったが、実際に絡まれたことは一度もなかった。けして強そうな体をしているわけではない。熱い胸板も広い肩幅ももっておらず、見た目通りに座り仕事をしている。
 しかし、足技をつかって化け物どもをぶちのめすのも事実だ。軍隊仕込みの歩き方は隙がないし、わざとぶつかろうとする異界人を避けるくらい造作もない。
 するりとかわした異界人は、スティーブンの後ろでチッと舌打ちをした。
 見下すようなしぐさに、腹が立ったりはしなかった。重心にぶれがある――あの程度の――異界人など、スティーブンの回し蹴り一つで圧勝できる。わずかな情報で力量差が測れないなら、そのうち各上に喧嘩を売ってこの世とおさらばしているだろう。なるべく早いうちに、彼を生きて返してくれる相手にぼろ負けできれば幸運だろう。
 クラウスとか、と敬愛するボスを思い浮かべたとき、うしろから「おい、てめぇ!」「あぁん!?」と荒っぽい声がした。振り返ると、さっそくさっきの異界人がもめ事をおこしていた。相手の声には十二分に聞き覚えがある。そっちとあたったかー、と人垣の隙間に銀髪を認めて、そのまま背を向けた。
 まぁ、あいつも五体満足で開放してくれるタイプだ。あの異界人は運がよかった。金は巻き上げられるだろうが、それも勉強代と思うしかない。
 目的の店でコーヒーを買って、飲み歩きしながら先を目指す。
 レオナルドだって、カツアゲを勉強代にした。金を分散して持ち、小銭だけの財布をさっさと渡すことで被害を最小限に抑える。彼の生存戦略だ。
 レオナルド・ウォッチ、最近入った部下は、呆れるほどカツアゲにあう。数奇な不運で目だけが特別製の彼は、一般人なのだ。歩き方は隙だらけだし、パンチ一つでノックアウトしそうな見た目をしている。絡まれるどころか、厄介ごとに自分で首を突っ込みに行くことも少なくないと、最近知った。
 スティーブンなら、もっとうまいやり方をする。魔法の目を使って、財布の小銭ですら渡さないようにする。機嫌が悪ければ、やっぱり魔法の目でカツアゲ犯を吐くまで虐めてやるし、事件に乱入したければもっと容赦はしない。
「ほんと、レオナルドは馬鹿だなぁ」
「えっ出会いがしらに酷くないっすか……」
 思いもよらない返答が、わりと近い場所から帰ってきて、スティーブンは瞠目した。
 一人で歩いていたはずなのに、と道路を見渡す。
 店並みから離れ、公園に差し掛かった場所では人通りはすくない。ぐるりと見渡せばすぐに見つかるはずだった。
「こっちです、こっち」
 前を見て、後ろを見て、ついでに反対の通りも上も見上げてみたが、レオナルドらしき影はない。よもや小さすぎて、と自分の胸までしかない少年を思い浮かべる。それとも、ついに吹っ切れて、私用で目を使ったのだろうか。
 いや、と自分の考えを否定する。スティーブンがバカ呼ばわりするくらいに頑固な彼のことだ。悪戯に使ったりはしないだろう。
「どこだ?」
「こっち。中ですよ」
「中?」
 そこでふと、公園を囲む生け垣の向こうを覗く。むわっと顔に湯気が直撃して、つかのま仰け反った。熱いわけではなく、わずかに体温より高い程度だ。
 改めて公園をみると、直径100m近くあるだろう湖ができていた。湯気が出ているということは、水じゃなくてお湯だ。この公園にこんなものが今まであっただろうか、と記憶をさぐるが、HLでは一日たてば地形が変わっていることはまれに起こりうる。
 少し濁りのあるお湯でできた湖に、レオナルドがいた。水面から見える胸から上の部分には衣服がないし、水中にぼんやりみえている体も肌色をしている。
 脇にぷかぷか浮かぶ洗面器の中に、鞄や、衣服、タオルが淹れられている。
「……何をしてるんだ?」
「すげーんすよ! これ温泉ですよ!」
「オンセン?」
「風呂っすよ、風呂! 昨日突然湧き出たみたいです。いやー助かりました」
「………お前ザップの相棒だもんなぁ」
「どういう意味っすか、それ!」
 ここは公道近くの、公園で、公共の場だ。裸になって風呂に入るような非常識を、スティーブンは理解できない。
 しかも、レオナルドの腕の近くを、ぬるっと長い何かの影が泳いでいった。
「おい、なんかいたぞ、今!」
「そうっすね。お湯だからなんもいないと思ったんですけど、なんかいますね。見たかんじ異界ミミズみたいなのが」
「よく入ってられるな! そんなとこ!」
「いやぁ、なかなかいい湯加減ですよ。おっと、そろそろ時間」
 信じられないことに、公園で裸でくつろいでいるレオナルドは、お湯の中から卵を取り出した。二つある。
 洗面器に入れている荷物から紙コップをとりだして、卵をわりいれる。白身がとろりと白濁していて、黄身が薄くピンクに透けている。半熟より少し緩めに湯でられた状態だ。
「実は温泉卵作ってみたんすよねー」
 そう尋ねるレオナルドの頭に、瞬きの間に小さな白い猿が現れる。音速猿のソニックだ。軽い体が音速を超えるほどの速さで移動するため、スティーブンには瞬間移動のように見える。
 レオナルドはさらに荷物から、小ぶりな食卓塩を取り出した。コップの卵に軽くふると、1つをレオナルドが、もう1つはソニックが美味しそうにすすった。白身もいれたら拳くらいはあるだろう卵は、つるんと一口で入っていった。食い意地の張っている彼らの口は、案外に大きいのだろう。すべてを収めて、1人と1匹の顔は幸せそうに緩んでいる。
 その表情を見ているだけでなりそうになった腹を、冷めかけたコーヒーを飲んで誤魔化した。
「この風呂、いつからここに?」
「僕が知る限りは昨日の午後っす。昼前に通ったときはなかったけど、夕方バイトで通りかかったときにはもう湯気が見えてました」
「そう、それでこんなところで風呂に入っちゃったのか」
「うち、シャワーが時々急に水になるんすよ。そんで、こないだついにお湯が全然でなくなっちゃって、困ってたんです」
「そうかー」
 それで公園で全裸になって得体のしれない湖に浸かってしまうのか。ついでに卵をゆでてしまうほどに、のんびりと。
 卵を食べ終わったソニックも、レオナルドの手のひらに乗って肩までお風呂に使ってしまった。音速猿としては、あまりない行動だろう。
 例えば鳥や虫は、羽が濡れると重くなって飛べなくなる。音速猿も、濡れると速度が落ちるだろう。それなりに安全だと判断しているから、お湯につかっているのだろうけど。その根拠は不明だ。
「気持ちよさそうだなぁ」
 呆れて発した言葉を、どうとらえたのかレオナルドはにっこりと笑った。
「今度スティーブンさんも一緒に入りませんか」
「ええ!? 僕も!? こんな場所で裸になるのは遠慮したいんだけど」
「いや、さすがに裸にいはなりませんよ」
 その言葉に、思わず湯の中に探るような視線を向けてしまった。言わんとしていることが伝わったらしく、レオナルドは慌てて立ち上がった。驚いた小さなソニックは慌てて指にしがみついた。
 その、下。湯に隠れていた下半身は、予想を覆して裸ではなかった。ちきんとデリケート部分は布で覆われている。水着をしっかり着込んでいたことに、安堵するよりも驚いた。図太い神経をしている少年が、そこまで頓着しているとは思っていなかった。
「えーっと、どこで着替えるの、それ」
「着て来れば脱ぐだけっすよ。塗れた水着を脱ぐときは、乾くのを待つか、まぁそのへんのトイレで」
 洗面器や卵から薄々気が付いていたが、やはり最初から風呂に入るつもりで、しっかり準備して公園に来たらしい。
 くしゅんっという小さな訴えが手のひらで起こって、レオナルドは再び肩まで湯につかった。
 すこし気まずい沈黙が流れた。
「……すまん」
「いや別に」
「君はザップより毛ほどマシだった」
「毛ほど!? もうちょい僕の方がマシでしょ!?」
「ははは、もうちょいな」
 レオナルドが湯上りの準備を始めて、スティーブンは別れの挨拶を口にした。
「じゃあ、事務所で」
 きっとこれから、さっき言ったように木陰かトイレで着替えるのだろう。もしそのまま事務所にくると、彼の恰好は“洗面器をかかえる”という不思議ないでたちになるのではないか。そもそも自宅から公園のお風呂まで、手荷物として洗面器があったはずだ。
 珍妙な格好だったろうと思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。
 困ったことに、いかに非常識と思っても、スティーブンの胸にはあの温泉への興味がむくむくと育ち始めていた。
 もとより、お風呂というのは気持ちいいものだというのは分かっているが、少年と猿は羨ましくなるくつろぎっぷりだった。服を脱ぐなんてありえないと思うのに、一緒に入って、卵を食べるのが悪くないような気がしてくる。
 とりあえず今日は、風呂にたっぷり湯を貼ろうと決めた。

 それから数日、そばを通るたびに公園のお湯を眺めたスティーブンだったが、 残念なことに、公園にできたお湯の湖はたった数日で消えてなくなった。
 夜遅く、ひょいと覗いた生け垣の向こうには、湯気もなく、湖もなく、乾いた土地が続くだけだった。
 毎日洗面器をもってライブラにやってきていたレオナルドは、温泉がなくなった翌日も洗面器をもってきた。肩を落とした様子で、随分と落ち込みながら、ため息をつく。
「温泉、なくなっちゃいました」
「僕も昨日覗いて、びっくりしたよ」
「じゃあ昨日の段階で、もうなくなっちゃってたんですね」
 正直、カツアゲに狙われやすい彼があの風呂で裸――正確には水着一枚――になることには若干の不安があった。
 服を脱いでいては緊急時にすぐ動けないし、ぷかぷかと浮かべている洗面器ごと荷物を取り上げられたら困ったことになる。
 だから、本当なら湖がなくなって、心配ごとが減ったわけだから、スティーブンにとっては喜ばしい出来事……のはずだ。
「お風呂どうしよう」
 心底困ったようにつぶやいたレオナルドを救ったのは、ギルベルトだった。彼はここ数日のレオナルドの生活を聞くや否や、包帯の隙間から笑った顔を見せて頷いた。
「それでしたら、ライブラのシャワー室を利用されてはいかがですか。湯船がないため湯には浸かれませんが、少なくともシャワーが使用中に水になることはありません」
「ほんとですか!?」
「いままで使う機会がなかったのでしょうが、あそこは基本、自由に使っていただいて結構ですよ」
「やったぁ! じゃ、じゃあ今からでも……?」
「はい。さしせまっての事件もありませんし、ごゆっくり。部屋は出て左の突き当り、タオルは棚の中でございます」
「ありがとうございます!」
 鞄を放り投げて、着替えと洗面器だけもったレオナルドは、相棒の猿と軽快な足取りでドアの向こうへ消えた。
 風呂の解決方法が見つかって、すっかりと気分が上向いたようだった。
 レオナルドより、スティーブンの方が落ち込んでいた。
 公園の湖1つ、なくなったところで困ることがあるわけでもない。レオナルドと違って、スティーブンの家にはしっかりと風呂があるし、湯船だってあって、温度調整に苦労しない。
 だから別に、あんなよくわからない生き物が泳いでいてどんな成分がはいっているのかよくわからない湖を惜しむことなんて、これっぽっちもない。
 けれど、実のところ未練があるのは、レオナルドが気まぐれに言った一言だった。『今度一緒に入りませんか』という誘いが、どうにも魅力的だったのだ。あんな風呂にはいるなんて冗談じゃないと思いながらも、毎日湖を見てしまう誘惑があった。
 背もたれに体重をあずけて、目を閉じる。軽はずみに誘った記憶なんて、シャワー室のレオナルドはすっかり忘れているだろう。
 数十分の時間をかけて、頬を染めあげ全身温まってきたレオナルドに、スティーブンは声をかけた。
「なぁ少年。今度僕と」
 風呂に入ろう、とはさすがに言えない。
「……ご飯食べに行こう」
「ご飯っすか」
 不思議そうに首を傾げながらも、少年は二つ返事で頷いた。了承をもらって、胸の奥にちいさな安堵がうまれた。それと、毛束でくすぐられるような、落ち着かなさ。
 自信の心中の甘い疼きに、気づいても見ないふりをした。
「卵のうまい店を探しておくよ」

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