昨日の晩から喉の調子がおかしかったが、朝になると完全に悪化していた。一晩寝れば治るだろうかと楽観的な予測はみごとにはずれ、もうとうに過ぎ去った十代の頃の体が今更ながら懐かしい。十代でなくても、十年前だってこれくらいすぐに治っていたのに。
出勤途中で買った咳と鼻水の薬を飲んで体を誤魔化した。今日はメンバーが少ないのが幸いだ。午前中はスティーブン一人だし、急ぎの書類のふりわけだけ済ましてクラウスが来たらさっさと帰ろう。
 いつもはコーヒーを入れるところだが、今日は水道水をカップに注いだだけで終わった。本来なら水道から出しただけの水なんて絶対に口にしないけど、そうも言っていられない。朝は気だるさだけだったのに、時間がたつほどに関節も頭も痛み出していた。どんどん悪化していっている。
 とにかく喉の違和感が一番酷くて、思わずネクタイを緩めているところに、盛大な咳をしながらレオナルドが入ってきた。
「げっほ!げほ、ごほ!」
 マスクもつけずに(人のことは言えないが)咳をしている様子に、絶対こいつから移ったんだろうと思わず睨みつけるような目つきになるが、口元だけはにこやかなカーブを作った。
「おはよう少年。風邪か?」
「ゲホッゲホ……そうなんですよ。すみません」
「喉からくるタイプかなぁ。大丈夫か?」
「いや〜そうみたいです。風邪とか、ゲホ、ケホ…数年ぶりっていうか」
「あぁ馬鹿はなんとやら」
「ひどいっすよ!」
 喉からくるタイプ、やっぱりレオナルドから移されてる。仕事もたまって忙しいときに、とんでもないことをしてくれた。彼は不摂生な生活で体の免疫力が下がっているんだろうし、わざとではないはずだから非がないのは頭では分かる。ただ、ぐったりと鈍痛を抱えた体では冷静に割り切れはしなかった。
 些細なことが癪で、鼓膜の中で虫の羽音がしているみたいに、小さな苛立ちが追い払えない。
「病院にいって……ないんだろうなぁ。1人暮らしだろ、困ってたりしないか?」
「ゲホ……まぁ、ザップさんさえ……なんとかなれば」
「あいつかぁ」
「この前なんて巻き添えくらって噴水にドボンです」
「そろそろ氷漬けにしてやろうかな」
 その瞬間スティーブンの中で風邪の原因はレオナルドからザップへ移行した。レオナルドはスティーブンをちらちら見ては、指で遊びながらソファのあたりに立ち往生している。
 ちょっと顔に出すぎていたかもしれない。
 落ちつかせるように、より一層にっこりとするが、レオナルドは顔を曇らせるばかりだ。普段ならそこまで気にしないのに、どうにも感情の抑えが利かずにレオナルドの細かい所作が目に付いてしまう。
「風邪だって他に誰か知ってるか? 頼る人がちゃんといるか?」
「ゴホゴホ……うーんザップさんとかっすかね」
「悪化するんじゃないのか、それ。もしかしてザップのやつと一緒って逆に結構危険なのか?」
「ゲホッ、助けてくれる時がないわけじゃないんすけど」
 その時、レオナルドがチラチラとスティーブンの机の上を見ているのに気付いた。机の上にはパソコンと書類と携帯、あと文房具。いつもと違うものは置いてないはずだ。
「おいおい庇うことないぞ、人質でもとられてるのか? あぁソニックか」
「違いますよー、ゴホ!」
「ま、来たばっかりだけど今日は帰ってしっかり休むといい。呼び出しは任せろ」
「ケホッ」
 なかなか立ち去る様子を見せないレオナルドは、いっそ何の行動も起こさないことが不審だ。嫌な予感が胸をよぎった。
「レオナルド」
「は、はい!」
 思えば、スティーブンの一挙手一投足にレオナルドは怯えすぎだ。風邪だと言うが、粘膜の音や呼吸が細くなっている音は聞こえない。
「クラウスにはうつすなよ。食べて、寝ること」
 首ふり人形みたいにガクガクと頷いてるのを横目に、スティーブンは用心深く席をはずした。給湯室へ行き、薄く開いた扉から様子を窺う。
 レオナルドはスティーブンの机に一目散に駆け寄ると、置きっぱなしにしていた携帯をひっつかんで慌ただしく出ていった。
 給湯室の扉を開いたスティーブンの目は氷のように冷え切っていた。
 レオナルドの後先考えないやり方には溜息が出る。そんなやり方じゃあ、過ぎに誰が何を盗んだのかバレるだろうに。それとも、これ以上ライブラにとどまる気がないからバレても問題ないと考えたのだろうか。
「バカめ」
 風邪のせいで苛立ってしょうがない。レオナルドは義眼保有者だから生かしておかなくてはいけない。人質をとるか、薬漬けにするか。どちらにしろクラウスに隠しておくことは難しい。あの目が諱名さえ読まなければ義眼が惜しかろうが殺してしまうのに、やっかいなことになった。
「……どうして僕らを裏切った、レオナルド」
 武器を仕込んでスティーブンやクラウスを襲わなかったのは、勝ち目がないと判断したからか。賢い選択だが、その代わりの盗難はお粗末なものだ。スティーブンの携帯にはまずロックがかかっているし、そもそも重要な情報は何一つ入っていない。
 ちんけな裏切りで、迷惑は甚大だ。
 スティーブンは憂鬱な気持ちでレオナルドのGPSを追った。パソコンで位置を確認し、おおよその行き先を確認してから追いかける。
 私設部隊を何人か送り、見逃すことがないように足取りを追っていく。


 レオナルドは路地裏で男と取引をしていた。男の方もスティーブンの知り合いだった。三か月ほど前、バーのテレビでベースボール観戦をしていたとき、隣に座っていて一緒に乾杯をした相手だ。それから何度か会って一緒に酒を飲みかわした。これもまた、残念な結果だ。
 レオナルドが男にスティーブンの携帯を手渡した瞬間に、地面に氷を走らせ男を凍らせる。レオナルドの方は、記憶をいじるのがいいだろう。裏切りをなかったことにしたうえで、次は二度とないように暗示をかけて、監視を強化して。
「レオ」
「スティーブンさん!」
 足元に冷気をまとわせたスティーブンをみて、レオナルドは嬉しそうに笑顔をふりまいた。予想していなかった行動に少し驚いたものの、見たことがないパターンでもない。命乞いのときに、相手はよく笑顔をみせるものだ。弱弱しく、友達だったじゃないかと、裏切ったくせに情に訴えようとする。もしくは、騙されていたのだと、スティーブンが助けてくれたのだというふりをして。
「助かりました!」
(ほら。もううんざりだ)
 つい先週もスティーブンは友人たちに裏切られた。パーティーに招いて、部屋を整えて料理を準備して、全員スティーブンが殺した。
(もう言い訳も聞きたくない……あぁでもバックの人間を確認しないといけない)
 レオナルドは言い訳もなく氷漬けの男にとびついて目に義眼をあわせると、模様のはいった円盤を浮かび上がらせリンクをつなぐ。
 それからレオナルドは路地裏を飛び出して、一度振り返ると「こっちです!」と必死の形相で叫んだ。スティーブンは携帯を回収してから、大人しく後ろをついていく。なぜか途中でバールを拾って、それで殴りかかってくるのかとも思ったら、路上に止めてある車につっこんでいってトランクをこじ開けようとしている。
 けれど体重と腕力がないレオナルドじゃ鍵がかかってるトランクは全然開かない。この中にレオナルドの言い訳があるだろうと踏んだスティーブンが手をかしてやった。
 ガコンと硬い音がして、中にいたのは小さい女の子だ。7歳の、白いリボンが大好きで、名前をサリーという。
「大丈夫か!?」
 サリーは大きな音に目を覚ましたのか、びっくりして目をぱちくりさせている。
「……ママは?」
 レオナルドはトランクの中から女の子を引っ張り出すと、自分は地面に膝を突いて下から見上げるように女の子に笑いかけた。
「ママを探しにお巡りさんとこに行こう」
「……パパは?」
「パパも探しにいこう」
 スティーブンは、その子を知っていた。その子の“パパ”から、自慢げに写真をみせられたことがあった。バーで、野球をみながら。スティーブンの肩に腕をまわして、酒臭い息でおてんばなお姫様なんだと聞いてもないのに教えてきた。もう会うことはないだろう。
 交番の前までサリーを送ると、レオナルドはスティーブンに向かって頭を下げた。
「ありがとうございました。スティーブンさんが気づいてくれてあの子も助かりました」
「いや。それよりもレオナル……ゲホ!」
 薬が切れたのか、動きまわって悪化したのか、スティーブンの喉から咳が飛びだした。
「風邪ですか?」
「ゲホ! ゴホッ、ゲホッ! ……君に、コホッ、うつされたらしい」
「スティーブンさんでもこんなときに冗談いうんですね」
 冗談、と言う言葉に、スティーブンは気づく。レオナルドはもう咳をしていない。そもそも、風邪だと言うが、粘膜の音や呼吸が細くなっている音はいっさいしていなかった。
 当然、演技だ。スティーブンを騙すための。でもスティーブンを騙すのにどうして風邪の演技が必要なんだ。


 レオナルドと会話した内容を思い出す。暗記に関してはクラウスのようには行かないが、最初は確か『風邪は大丈夫か』と言うようなことを尋ねた。レオナルドは何度か咳ばらいして、大丈夫だと答えた。
 二回じゃなかったか。
 二回の咳払い。

 イエスなら一回、ノーなら二回。

 会話の内容もレオナルドの咳払いの数も覚えてはいないが、人質がどうのと会話をしなかったか。
(帰って、事務所のカメラで、会話と……事実の、照合を……)
「……よかった」
気がつけばそう口走っていた。ひらめきが背骨を駆け降りた瞬間、頭では確認が必要だとわかっているのに、レオナルドは裏切ったわけじゃないのだと、心の底からスティーブンは信じた。
 見ず知らずの女の子を人質にとられ、盗聴器でもしかけられていたのだろう、スティーブンに伝わるように合図を送っていたのだ思うと、どうしようもない安堵が体を包み込む。
「スティーブンさんのおかげです」
 何を勘違いしたのかレオナルドが答えた。
(この子は僕らを、僕を、裏切ってない)
 隣に立つレオナルドの細い肩に手を置いて、首に擦り寄るように額を手の項に乗せた。
「ゲホッ」
「スティーブンさん、大丈夫ですか」
「あぁ……もう大丈夫だ」



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