▽ 68-ヘミソフィア(半球)
「お疲れ」
「天根さん。お疲れ様です」
一人でベンチに腰かけて休む姿を見かけた時、何か考えるよりも先に声をかけていた。
その事実に、声をかけた張本人である天根が一番驚いていた。
しかし今更言葉を引っ込めるわけにもいかず、自分でも若干混乱したまま名前に近づく。
学園祭の準備も、そろそろ大詰めといったところ。
普段は試合でしかかかわりのない他校のテニス部メンバーとも雑談程度ならできるようになった上、名前のようなこの学園祭で初めて出会うことのできた存在もいる。
そういった意味でも、この学園祭に参加してよかったと思う。
「隣、いいか」
「ええ、どうぞ」
「お前がこんなところにいるなんて珍しいな」
「少し休憩です。天根さんもですか?」
「ああ、まあ」
学園祭実行委員の中でもかなり役職が上の方になるのであろう彼女は最初のころはずいぶんと忙しそうにしていたが、最近は少し落ち着いているように見える。
もう彼女が手を出さなくても、他のテニス部員や実行委員が十分な働きをしてくれるということだろうか。
この学園祭が開催された理由は氷帝学園の跡部の思いつきであると聞いているから、きっと彼女は跡部に巻き込まれたのだろうと思う。
本来なら中学生の夏休みとして、色々なところへ遊びに行ったりできただろうに、彼女はほとんどこの学園祭にかかりっきりだったに違いない。
そう思うと、自分が悪いわけでもないのに天根は少し申し訳ない気持ちになった。
隣に座ったまま渋い顔になった天根の顔に気が付いた名前は、彼の表情を不思議そうに見つめた後に柔らかい笑みを浮かべた。
「天根さんは、背が高いですよね」
「え?」
「その場にあるものでダジャレを言ったり、力持ちだったり、全部私にはないものです」
突然何を言い出すのだろう。
先ほどの彼女と同じように、今度は天根の顔に不思議そうな表情が広がっていく。
そんな表情を知ってか知らずか、名前はさらに続ける。
「この学園祭で、自分には足りないものばっかりだなって思いました」
口元は笑っているけれど、ベンチの下に広がる芝生に落とした彼女の視線はどことなく暗い。
彼女の不安はどこからきているのだろう。
もしかして、周りが頑張れば頑張るほど彼女は自身の力の無さに気づかされていったんだろうか。
たしかに、周りの人間のことを羨ましいと思うことはたくさんある。
しかし、自分に足りないことばかりだなんて彼女には思ってほしくなかった。
「お前は、バネさんに殴られたことないだろ」
「黒羽さんに、ですか?」
「俺は数えきれないほど殴られたことがあるし、その大半は俺のダジャレに対するツッコミだけど、たまにマジのやつがある」
一体自分は何を言い出しているのだろう。
彼女の前に来るといつだってそうだ。
さっき話しかけた時だって自分が心の準備ができていないままに口が開いていたようなものだし、今の状態だってそうだ。
自分の心が落ち着く前に、どこか慌ててしまっている。
何か伝わっているのだろうか。自分でさえも、何を言っているかわからないのに。
「お前はバネさんに殴られたいか?」
「いえ、できれば遠慮したいです」
「それならお前はそのままでいい。他の奴が持ってるものを、全部羨ましがる必要なんてない」
自分がすべてを背負いこもうとする必要はない。
人にはそれぞれ得意不得意があって、できることとできないことがあって、人と人とが組み合わさって物事が進むんじゃないだろうか。
相手が出来ないことは、自分が補うから。
そういったことを伝えたかったはずなのだが、はたして自分はどこまで伝えられたのだろうか。
サッと顔を赤くした天根は、ベンチから勢いよく立ち上がった。
「じゃあな」
返事なんて、聞いたらこっちが恥ずかしくなりそうだ。
ヘミソフィア(半球)
―天根ヒカルの不器用な応援
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