▽ 59-追いかけて
視界の端に、彼女の歩いている姿が入った。
一日中学園祭会場を歩き回って、よく疲れずに毎日来ているものだと思う。
しかし、こちらから近づいて行って話をする必要はない。
こちらの姿を見かければ彼女の方から近寄ってきて、適当な雑談をした後に「準備一緒にどうですか」と誘うのだ。
これがいつものパターンだ。
最近は彼女に言われなくても準備にちらりと顔を出すようにはしたのだが、やはり一緒に作業をすることが彼女の最終目的らしい。
今日はどんな言葉でこちらを誘い出そうとするのかと思いながら木の幹に背を預ければ、案の定彼女はこちらの姿に気が付いた。
そして次の瞬間、こちらに向かって早足で向かってくるものだと思っていた。
「……は?」
一体どういうつもりだろうか。
亜久津の予想は大きく外れ、ナツは瞬間的に立ち止まり、そしてこちらに背を向けるようにして歩いて行ってしまった。
自分と関わりたくなくなったのなら、それでいい。
多少のいら立ちは頭に浮かんだものの、すぐに振り切った。
またひとり、自分の傍から人が離れて行っただけ。
ただそれだけのことだ。
一度会場の外に出て気分転換でもしてこようか。
そうすれば、この気持ちも紛れるはずだ。
自分のどの行動が彼女の気に障ったのかはわからない。
そんな行動は数えきれないほどしているという自覚くらいはあるし、ここまで付いてきた彼女がある意味で変な奴だったのだろう。
しかし、今日一日の彼女の様子を見ていればどうにも納得がいかない。
いつも亜久津の姿が見えるところに現れては、表情をわずかに曇らせたり何か言いたそうな顔をして去っていく。
自分と関わりたくなくなったのなら、わざわざ近くに来る必要がどこにあるのだろうか。
もう夕暮れ時になってしまった時間帯に、ついに亜久津の苛立ちが頂点に達した。
空いている教室の一室でヘッドホンをして音楽を聴いている彼の姿を、ナツが廊下の外を通るたびに横目で見て行くのだ。
わずか一時間のうちに三度も見て行ったナツに対し、亜久津がヘッドホンを首へとずらして勢いよく立ち上がれば、彼女は慌てた様子で去っていこうとする。
しかしそこはテニス部の中でも屈指の運動神経と呼ばれる亜久津と、普段は帰宅部の女子の差。
わずか十秒とかからずにナツの腕を後ろから掴んだ亜久津は、強引に彼女をこちらに向かせた。
驚きこそはしていたものの、その表情には恐怖の色は見られなかった。
そのことが少し、亜久津の苛立ちを和らげた。
「おい、今日一日いったい何の真似だ?」
「いやいや、一体なんのことだか」
「しらばっくれてんじゃねーぞ」
なおもしらを切ろうとするナツに対し、腕をつかむのをやめた亜久津は壁に手をついた。
亜久津の体と壁の間には、ナツだけ。
見上げるような体勢になった彼女に対して、真上から威圧感を醸しながら見下ろす。
今日一日、自分から逃げるようなことをしていたのは事実ではないか。
そのくせ、こちらをちらちらと気にしているそぶりを見せていたことも。
いつものようにやたらと話しかけてくるか、それとも無視をするか、はっきりさせてほしい。
なんといえばいいものかと考え込むような表情になったナツの顔を見て、亜久津は低い声で催促した。
周りに人は誰もおらず、その声がやたらと響く。
「で?」
「えーと…いつも私、亜久津さんに話しかけすぎかもしれないと思ったので今日一日距離を置いてみようかと思ったんです」
「ふーん…誰が言いだした?」
なんだか妙だ、と思う。
ナツ自身が考えたのならこんなにもしどろもどろにはならないだろうし、先ほどから視線が合わない。
視線を合わせて会話するのが彼女の特徴の一つだというのに。
そこまで考えたところで、一人の男の顔が浮かんだ。
こんなことを言い出すのは、きっとあいつしかいない。
壁から手を離し、亜久津は彼女に背を向けた。
答えを聞かずとも、わかっていた。
「千石の野郎、ぶっ飛ばす!」
一日中、変な気分にさせやがって。
その代償を払ってもらうしかないだろう。
追いかけて
―亜久津仁のイラついた一日
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