▼ 忘れ物
今日は平日。
なのに、ねーちゃんの行ってる氷帝は休みらしい。
創立記念日とかで、朝六時になっても起きてこない。
もちろん氷帝の記念日なんて立海に関係あるはずがなくて、俺は今日も六時に起きて髪をセットして、部活に向かわなくちゃならない。
ねーちゃんのいない朝ごはんはやっぱりいつもと違って、食べるペースが遅くなってたらしい。
気が付いたらバスの出る時間になっていて、今日は自転車を飛ばしてかねえと。
ラケットケースを背負って、ついでに一応ペンも数本鞄に入れて、自転車のサドルをまたぐ。
教科書は学校に置いてあるから入れる必要はない。
いざペダルを踏もうと思ったら、玄関のドアが開いた。
「今日もお疲れー」
「自分は休みだからってちくしょー」
「ははは、頑張れよ青少年」
「だーっ、もう!昨日やったゲームのレベル上げやっといて!いってきます」
寝癖でぼさぼさの頭で出てきたねーちゃんは、気持ち悪いほど爽やかな顔で俺を見送ってる。
ちくしょー、うらやましい!
財布を忘れたことに気づいたのは、朝練が終わった後だった。
喉かわいたから自販機で飲み物でも買おうと思って鞄の中を手探りで引っ掻き回すと、その中にあるのは数本のペンだけ。
いつもなら、かえるの折り畳み財布が入ってるはずなのに。
部室で鞄をひっくり返してみても、中から出てくるのはガムとペンと、昨日返された小テストだけ。
「なんだこの中身は!」と隣で怒っている真田副部長のことも、今はどうでもいい。
財布がないってことは、飲み物が買えねえどころの話じゃない。
「俺の昼ごはんが買えないんスよ、真田副部長!どうしましょう!」
「自業自得だ、たわけが!」
いつも購買で買っている昼ごはんが買えない。
俺が学校に来る理由なんてテニスすることと昼ごはん食うことくらいなのに、そのうちの一つが今日はないなんて。
とーちゃんはもう会社に行ってるし、かーちゃんも出かけるって言ってた。
今日は嫌いな英語もなぜか二時間あるし、ねーちゃんも家にいるからこれで帰った方がいいかもしれない。
あれ、ねーちゃん?
そうだ、今日はねーちゃんがいるんだった!
制服のポケットに入れておいた携帯を引っ張り出して、ねーちゃんにメールを打つ。
ねーちゃんのことだから、今日は家で引きこもってるはずだ。
もしかしたら図書館に行ったり服買いに行く用事があるかもしれねえけど、絶対に一人のはず。
友達がいないとかそういうわけじゃなくて、休みはなるべくなら一人で外出するか、家で過ごしたいらしい。
もうすぐ朝のホームルームが始まりますよ、と言う柳生先輩に背中を押されながらメールを打てば、暇らしいねーちゃんからすぐに返事が返ってきた。
『やだ、面倒くさい。忘れたあんたが悪い』
クールすぎるよ、ねーちゃん。
まあたぶん俺もねーちゃんから似たようなメールが来たとしたら、同じように返すけど。
ここは物で釣るしかない。
いつもみたいなお菓子くらいじゃ、きっとねーちゃんは家から出てきてくれないだろう。
自分の昼飯のためでもあるし、少しくらいの出費はしょうがない。
中古で安いやつを探せば、きっとゲーセンに行けるくらいの小遣いは残るだろう。
『ねーちゃんが欲しがってたソフト買うから!』
『おっけー、いつ届ければいい?』
『昼休みが1時からだから、それくらい』
『はいよー』
甘いものかゲームか。
ねーちゃんは単純だと思うけど、これで俺の昼飯は買えそうだ。
俺を二年の廊下へと連れて行きながら、柳生先輩が眼鏡をきらりと光らせて言った。
「切原君、先ほどのお財布の件ですが、私でよければいくらかお貸しいたしますが」
「あざっす、柳生先輩。でも大丈夫ッス!姉貴が届けてくれることになったんで」
「おや、お姉さんですか。たしか私と同じ学年の氷帝の方と聞いていましたが」
「今日氷帝休みなんスよー、ずるいっすよね」
「ああ、なるほど」
午前中は英語が二時間もあるけど、それを乗り越えれば昼飯だ。
そして昼休みには、ねーちゃんが立海にやってくる。
授業中に何度も何度も校門の方に目を向けていたのがバレたのか、先生に怒られたけど気にしねえ。
たぶん、ねーちゃんが立海に来たことはない。
午前中の授業が終わるチャイムが鳴って、適当にペンを机にしまって階段を駆け下りる。
約束では、ねーちゃんは校門に来るはず。
上履きのままそこに向かうと、そこにはまだ誰もいなかった。
腹は減ってるし、日差しは暑い。
さっきまではあんなにうきうきしていたのに、だんだんねーちゃんへのイラつきが高まってくる。
1時から昼休みだって言ったのに、ねーちゃんはすっぽかしたんだろうか。
校舎の上の方に埋め込まれた時計が1時15分を指す頃、ねーちゃんを乗せたバスがやっときた。
「おせーよ、ねーちゃん!こんな時間じゃ購買にろくなもん残ってなさそうだし」
「あんたね、バス停の目の前にいるなら時刻表見てよ、時刻表。この前の便だと12時半だから早く着きすぎるの。はい、財布」
「あ、サンキュー」
緑色のかえるの財布。
小っちゃいころに誕生日プレゼントで貰ったやつで、今でも使いやすいから使ってる。
もっとかっこいい財布がいいなと思うときもあるけど、やっぱこれだ。
俺に財布を渡したねーちゃんは、その財布を見たまま深いため息をついた。
肩にかけたポシェットから自分の財布を取り出して、二つを見比べてる。
「何してんの」
「あんた、その財布の中身で購買行って何買うの?」
「え?そりゃ牛乳パンにカフェオレにおにぎりにー…って、ああ!?」
「100円玉一枚もないって危機感なさすぎ。500円玉入れといたから、それで買いな」
ねーちゃんに中古のゲームを買うどころの話じゃない。
俺の財布には十円玉が数枚と一円玉が一枚しかなかったらしく、ちっちゃい紙に包まれるようにして500円玉が出てきた。
「ねーちゃんの優しさ」と走り書きされた紙が、財布の中に折りたたまれている。
こんな財布じゃゲームを買えるはずがないとわかっていて、ねーちゃんはここまで財布を届けてくれたらしい。
やっぱりなんだかんだで、良いねーちゃんだ。
私の財布が寂しくなった、と言いながらねーちゃんはバス停のベンチに腰かけた。
次のバスは20分後。
帰ったらマッサージでもしようと思っていたら、ねーちゃんがいきなり振り返った。
「さっきの500円で私のお昼も買ってきて。おなかペコペコ」
「サンドウィッチでいい?」
「トマト入ってるやつね。絶対トマト入ってるやつ」
ぐー、とお腹の音を鳴り響かせながらねーちゃんが「行け、赤也!」と犬に命令するかのように指示を出してくる。
いつもなら反抗するところだけど、今日ばかりは素直に従っておこう。
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