▼ 潜んだ契約
及川徹という男は、相手の高校の主将でありエースだった。
そのことは紗代にとっては何よりも衝撃的な出来事であり、練習試合が終わった後も引きずったまま。
使い終わったドリンクボトルを回収していると、彼女の前に立ちはだかる人影があった。
鋭い目つきの、あまり話したことがない同学年の男の子。
「…お前、及川さんと知り合いなのか」
「え、ああ、うん。このドリンクを作ってる時に声かけられて」
「ふーん…」
初めて話しかけてくれた、という事実は嬉しいものの、目の前にいる男子の表情は曇っていくばかり。
ええと、と会話を続けようとする前にボトルを紗代の持っていたカゴに入れていなくなってしまう。
初めてまともに会話した話題が「及川さんのこと」というのはなんとも言えないけれど、とりあえず自分の存在は認知してくれているということだ。
一歩前進したと考えよう。
少し緩んだ頬のまま、ドリンクボトルのカゴを持ったまま体育館の外へと急ぐ。
ボトルを洗うのは烏野高校に着いてからにして、とりあえずはバスで高校まで帰らなければならない。
他の部員や清水もすでに体育館からいなくなっており、最後を任された紗代もコートを後にする。
その様子を見ていた及川もまた、追うように体育館を抜け出した。
「チビマネちゃーん」
「…あ」
「ねえねえ、ちょっと訊きたいことあるんだけどさ、いーい?」
掛けられた声は、軽い口調のものだった。
こんな特徴的な呼びかけをしてくるのは、この世で一人しかいないことはわかりきっている。
後ろからやってきた及川は、紗代の返事も待たずに言葉をつづけた。
「トビオちゃんと仲良くないでしょ」
「トビオちゃん…って、誰ですか?」
「あー、下の名前じゃわかんないか。王様だよ、王様。影山飛雄」
その名前を聞くや否や、ぴくりと肩を揺らした紗代に及川は笑いかける。
内心はしてやったりである。
人間関係をごちゃごちゃに引っ掻き回すには、ここが一番手っ取り早い。
自分には興味を示さなかったくせに、カワイイ後輩の名前には反応を示すのはむかつくけれど。
何も技術的な面だけで烏野を圧倒させなくてもいいのだ。
内面からほろりほろりとかき乱していくのも面白いのではないだろうか。
こんなことを考えてしまう自分自身は相当性格が捻くれているということは、誰に言われなくてもわかっている。
「トビオちゃんね、俺の中学の後輩なんだ。よかったら色々教えてあげようか?話題になりそうなこととかいろいろ」
及川の提案に、紗代の心は揺れ動く。
誰かの手を借りてまで、人と仲良くなるべきものなのだろうか。
今まで誰かの仲介を通してまで仲良くなろうと思った人はいなかったし、そのスタイルで特に問題はなかった。
しかし、今回の相手は異性。
しかも何の話題の取っ掛かりのない、目つきの鋭い男の子。
キャプテンである澤村は「チームの絆」というものを重んじていたし、その和を乱しそうな日向と影山は一時的ではあるが入部を拒否されていたのだ。
少しでも仲良くなるきっかけがあるのなら、目の前のこの男に頼るのも有なのだろうか。
飄々としていて、つかみどころのない人だけれど。
「…お願いします!」
「うんうん、いい子だね。じゃあアドレス交換しよっか、メールで情報交換しようよ」
ひらひらと振られる手に見送られて、バスに乗り込んだ。
及川の口は「メール」という形を何度も作っており、紗代は観念したように頷く。
その様子を隣から見ていた清水は、少し心配そうに彼女に問いかけた。
「彼と何かあった?」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
何か嫌がらせをされたわけではない。
むしろ、彼はこれから自分に協力してくれる人だ。
影山と世間話くらいはできるようになるように、自分も努力しなければ。
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