獅子王戦が始まった。

とはいっても結衣子が特別に何かをしているわけではない。

会った時は挨拶を交わし、そして話をする。

もちろんその頻度が少なく、そして短くなっていることは否めないが、それは仕方のないことだ。

自分のすべてを懸けて戦っているのだから。

たしか今は、京都で戦っている。

新聞やネットで見る限り、状況はよろしくない。

あと一つ黒星がついてしまったら、その時は島田の負けが決まってしまう。

3月下旬、早朝の快晴の空を見上げ、結衣子は小さく息を吐いた。

自分はいつまで、この階段の町で島田を待っているだけの存在なのだろう。

隣にはいられない存在なのだろう。

カバンの中に入れていた携帯が震えるのを感じ、結衣子は口を真一文字に結んだ。

今は自分のできること、仕事をしなければ。





追い詰められた。

そんなことは、周りで騒ぎたてている連中の誰よりも自分がよくわかっている。

20年近く前からのお供である「腹痛」も、あざ笑うかのようにギスギスと痛んでいる。

しかし、そんなことはもうどうでもいい。

この痛みを感じることも何もかも、今まさに自分が「生きている」という証明だ。

宗谷と向かいあって指しているこの将棋も何もかも、自分の証だ。

今まで一体何を迷っていたのだろう。

思い切って、全ての理論を振り切った駒を指してみれば、宗谷の反撃がやってくる。

切り込まれていく感覚を体に感じる中で、結衣子を思い出した。

今はまだ隣に居ない彼女。

彼女はいつから自分の隣の家に住み始めたのだろうか、今ではそれを思い出すのも難しいほどに彼女の存在は大きい。

朝起きて外に出れば、「おはよう」と挨拶するのが当たり前。

和菓子を持ってきてくれるチャイムを心待ちにする時間も当たり前。

隣の家に明かりが点いているのを見て安心するのも当たり前。

彼女があの階段の町にいてくれることも当たり前。

いつまで彼女をあの階段の町で待たせておくのだろう。

考えてみれば、彼女と一緒に階段の町へ帰ったことがあっただろうか。

初詣の時も、お墓で話した後にウナギ屋に寄っていくという彼女と途中で別れてしまった。

宗谷の猛攻撃を受けていると、雪がちらつく光景が脳裏に浮かぶ。

その雪が結衣子の姿をちらちらと覆い隠していくようで、その雪を払拭するように投了を宣言した。

帰ったら、彼女に伝えよう。

負けた姿で格好悪いけれど、好きだと伝えるんだ。

投了の声を聞いた宗谷は、静かにその手を盤上へと持って行き、一つの駒を指した。



「………美しかったのに…」
「島田さん!!」



宗谷の小さな呟きと、容赦なくたかれるカメラのフラッシュの間から現れた彼女の姿を見て、島田の中に閃光が走った。

一筋の光が、彼の心の中ではじけた。





ホテルの一室で、結衣子と島田は言葉なく向き合っていた。

窓から見える景色は、朝からずっと続く雨で重く見える。

先ほど獅子王戦の最終戦を終えた島田は、信じられない思いで目の前のソファで小さく縮む結衣子を見た。

先ほどの一局で自分が気付かなかったあの一手、そしていきなり結衣子が現れたこと。

わずか一日の中ではあまりにも密度が濃すぎるのだ。



「…どうしてここへ?」
「零君が教えてくれたんです。桐山零君」
「桐山が…」



かすれた島田の言葉に、結衣子は小さく返す。

朝に自分の携帯が震えた時、携帯の着信には見知らぬ番号があった。

てっきり仕事の電話かと思っていたためにビックリしたが、おそるおそる出てみると電話の相手は桐山だった。

「とにかくこちらに向かってほしい」という桐山の言葉に、結衣子は自分でも知らない間に階段の町から駆けだしていた。

隣に居られる存在になっていることを願っているばかりでは何も変わらないのだ。

自分から隣に行かなければ。



「そんなに頼りないですか、私」



ソファから立ち上がり、結衣子は島田の隣に跪き、島田の頬へと手を当てた。

青白く、冷たい顔。

一人掛けのソファに座る島田の顔が結衣子よりも若干高い場所にあり、光の加減でその顔をさらに青白くさせた。

いつまで彼は一人で背負い続けるのだろう。

自分が具合が悪くても、どんなにプレッシャーを感じていても一人で抱え込んでしまう強さ、そして脆さ。

少しは、自分に頼ってくれたっていいじゃないか。



「…頼ってくださいよ。私、島田さんのことが」
「好きだ」



結衣子の言葉が続く前に、島田は自分の言葉を被せた。

おそらくは彼女が言おうとしていたことと同じことである。

自分の頬に感じる彼女の手の小さな温かさに、島田もそっと手を重ねた。

そしてそのままソファから床へと跪き、結衣子の視線へと身体をかがめた。

前傾姿勢になった島田に、驚きの表情で固まる結衣子の鼻先は触れあいそうなほどに近い。



「結衣子のこと、好きなんだ」
「し、島田さ」
「止めろって言われたってもう無理だからな」



今ここで彼女で言わなければ、いつ言えと言うのか。

どんどんと熱くなっていく彼女の手を感じながら、島田は結衣子の目をまっすぐに見つめる。

今掴んでいる腕を離したくない。

願わくば、この一瞬だけではなく、一生掴んでいたいのだ。

いつもは駒を掴んでいるこの手に、もう一つの宝が欲しい。

そう思うのは、悪いことなのだろうか。



「一緒に帰ってくれるか?階段の町に」
「……喜んで」



初めて触れる彼女の唇に口づけを授け、島田は結衣子の身体を守るかのように抱きしめた。

開いたままのカーテンからは京都の山が見え、山頂部分へと沈む夕日が二人を優しく照らす。

雨雲の途切れた山頂は、どこよりも輝いて見えた。





バスを降り、彼女と二人で階段の町を一段一段上がっていく。

やっと隣にいられるようになった、二人の存在。

これからも隣人という関係はしばらくは続いていくだろう。

しかしもう一つ、彼らには新しい関係ができた。



「結衣子、ちょっといいか」
「なんですか、島田さん」
「…その呼び方、そろそろ変えてもいいと思うんだが」
「え、ちょ、え!?無理です無理です!」
「出来るまで家には帰さないっていう手もアリだな…」
「隣の家なのに!?」



階段の町には今日も明るい声が響く。

その階段の先には、なにがあるのだろう。

二人の関係は今でも少しずつ前へと進んでいる。





END

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