うなぎの注文が入った。
今や棋士会館への配達は結衣子が中心に行っており、昼前に配達用の車へと乗りこんだ。
後部座席には出来立てのうな重のセットが何点かあり、隣には彼女が作ったお弁当が入ったランチバッグが置かれている。
夏の暑い日が続く毎日。
それにもかかわらず、ほぼ毎日といっていいほど棋士会館からの注文が入る。
少し夏バテ気味の結衣子にとっては、その食欲がうらやましい限りである。
「おお、来た来た!こんにちは、結衣子ちゃん」
「こんにちは、神宮寺さん」
温もりのあるうな重を抱え、腕にはランチバッグを引っ掛けた状態で棋士会館へと入る。
車を下りてから入り口までの間は灼熱のような暑さで、冷房のよく効いた室内はオアシスのような存在だ。
ロビーで待ってくれていたらしい神宮寺と世間話を交わし、二階へと上がる。
かくいう神宮寺も毎日うな重を注文してくれるうちの一人で、いつも豪快な笑い声と共に彼女を迎えてくれる人だ。
同時によく彼女のことを気に掛けてくれる人でもあり、なんとなく祖父のような雰囲気も感じる人。
うな重のセットを二つ抱えた状態のまま上がり切り、ある一室の襖を開ける。
何度もここに来ているため、勝手知ったるなんとやら、である。
「こんにちは、うな重を届けに来ました」
「おー結衣子ちゃん、いつもありがとう。それってもしかしてお弁当?」
「はい。下のロビーで食べようかと」
「ロビーで!?いやいや、ここで食べてこうよ!その方がここが華やかになるし!」
うな重を注文していたらしいスミスが、結衣子の腕に引っ掛けられたランチバッグに目ざとく気づく。
その誘いは嬉しいのだが、この畳部屋は棋士たちの休憩部屋である。
そこに部外者の自分がいていいものだろうか。
お邪魔になると悪いですから、と引き下がろうとすれば、スミスは最後の手段と言わんばかりに一人の青年に話を振った。
ちょうどうな重を取りに来たらしい、くしゃくしゃの黒髪の男である。
「桐山も結衣子ちゃんが一緒にご飯食べてくれたら嬉しくない?ね?」
「ええっ!?そりゃ嬉しいですけど…結衣子さんが嫌だって言うなら無理強いをするわけには…」
あたふたとした様子で答える桐山の様子を見て、結衣子の心の中が揺らぐ。
こういった嘘をつきそうにもない人に本心を言われるのには弱い。
悩み始めた結衣子の表情の変化をいち早く見抜き、スミスは彼女の背中を押してほど近い座布団の上へと座らせた。
その向かいにスミスが座り、結衣子の隣には桐山が腰を落ち着ける。
包囲網の完成である。
周りの棋士からの視線も特に感じられず、彼女は観念した様子でランチバッグを机の上に下した。
少しずつ食事を進める中で、桐山はあることを思い出した。
この前、あの家でごはんに呼ばれた時に言われたことだ。
「あかりさんたちが夏のお菓子を考えるみたいで結衣子さんに来てもらいたいって言ってましたよ。よかったらどうぞ、と」
「本当?ありがとう、後で三日月堂に行ってみたときに詳しく訊いてみるね」
「え、結衣子ちゃんってあかりさんと面識あるんだ?」
「はい、行きつけの和菓子やさんのお孫さんがあかりさんなんです」
「…うーん、いっちゃんが聞いたらとてつもない衝撃を受けそう…」
今日は松本はいない。
棋士会館のムードメーカーとも呼ばれる彼であるが、唯一の欠点は色恋沙汰に左右されがちなこと。
最近はだいぶ結衣子への失恋のショックも癒えてきたようで、彼女の姿を見ただけで石化するようなことはなくなった。
もちろん一対一で話すとなればとんでもなく緊張しているようなのだが、それでも前のように戻りつつあった。
しかし、島田と結衣子が二人でいるところを見てしまった場合、彼は今でも動きが停止する。
なかなかの頻度で隣にいるスミスが数分ほど話しかけ続けなければ動こうとしないほどである。
そんな彼に「結衣子とあかりが知り合いらしい」などと話してみればどうなってしまうのだろう。
好みの女性二人が知り合いということは、彼にとってどのようなショックを与えるのだろうか。
三人が昼食をあらかた食べ終わり、空き箱の回収をするという結衣子が立ち上がると、スミスは特に表情も変えずに一つの質問をした。
「結衣子ちゃん、一つ訊いてもいい?」
「なんですか?」
「俺もモテる男に憧れるから参考に聞きたいんだけどさ、島田さんのどこが好き?」
スミスの言葉が終わるや否や、畳部屋の中は静寂に包まれた。
ここにいる人間ならば誰でも知っているA級に在位するトップ棋士。
その人格の良さはよく知られており、彼への信頼は棋士界全体からも厚い。
その彼の恋人は、彼のどこが好きなのだろう。
純粋な興味をそそられたのか、無駄口を一切叩かなくなった周りの変化に結衣子も気づいていた。
見る見るうちに顔を真っ赤にさせ、うな重の空き箱をスミスと桐山の前から素早く回収し、背を向ける。
襖を勢いよく開け、振り返った結衣子の顔はいまだに赤いまま。
ストレートすぎたか、とスミスが背中に冷や汗をかく中で、襖を閉める隙間から短く声が聞こえた。
「…内緒です!」
あんなに大勢の前で答えられるわけがない。
いくらでも好きなところなんて挙げられるけれど、あまりにも恥ずかしい。
それに島田が次にここへ来たとき、どんなからかいを受けてしまうのだろう。
あらゆることを想定した結果、言わない方が良いと思ったのだ。
…恥ずかしいという感情が第一の理由ではあるが。
結衣子がロビーに降りると、神宮寺が空き箱を片腕に抱えた状態で誰かと話していた。
相手はずいぶんと体格の良い男である。
話の邪魔にならないようにそっと近寄れば、神宮寺は彼女の様子に気が付いて首をかしげる。
「美味かったよ、ごちそう様。で、その赤い顔はどうした?」
「気にしないでください、はい、本当に。それじゃあ、また来ますね!ご注文ありがとうございました」
今にも蒸気が出そうな顔色のまま逃げるように去っていく結衣子の後ろ姿を見送り、神宮寺は「なんかあったか?」と呟く。
その後ろ姿に同様に目をやり、相手の男は目の前の神宮寺に問いかけた。
「今のがアレか、島田の彼女?」
「ああ、まあ…うーん、ちょっと上にいる奴らを取っちめて話を…」
話半分に聞き流した状態で答えてくる神宮寺に「ふうん」と相槌を打ちながら、男はニヤリと笑った。
前回の獅子王戦挑戦者決定トーナメントで島田と闘い合った後藤である。
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