今日は初めてのデートの日だ。
行先は水族館。
早智と付き合うようになってから携帯を持ち始めるようになった宗谷とメールでやり取りをした結果、癒される場所かつ屋内が良いという話になり、結果として水族館に落ち着いた。
同じ条件だと二人の出会いの場所である早智の勤め先の喫茶店という案も浮かんだのだが、「それじゃあいつもと変わらないでしょう」とオーナーに一蹴され、水族館に落ち着いた。
どうやら宗谷のほうも誰かに相談していたらしく、携帯に関しても彼らの勧めで購入を決めたらしい。
待ち合わせの時間は午前十時。
早智は少し早めに着いていようと家を出たものの、どうやら張り切りすぎたらしく、待ち合わせ場所の駅前広場に三十分前に着いてしまった。
どこか時間をつぶす場所はあるだろうか、ときょろきょろと辺りを見回すと、広場の中心に立っている時計台の下に一人の男の姿が見えた。
痩身に銀縁のメガネ、薄い水色のシャツに細身の黒いパンツを合わせた彼は、虚空の一点をじっと見つめて動かない。
ああ、あの表情はきっと、今話しかけても反応がないだろうな。
彼のもとへ歩み寄っても、やはり彼女の姿に気づいた様子はない。
隣に立ってみても、ぴくりとも動かない。
周りから見ると不思議な光景に見えるだろうが、彼女にとっては慣れっこだった。
将棋のことになると周りが見えなくなってしまうのは、喫茶店でメニューを待っている姿を何回も見ているため当たり前の光景だった。
十時になると同時に、隣の彼のポケットからバイブレーションの音がした。
震える携帯にちらりと目を向けた彼は、その視線の端に映った女性に気が付く。
「いつからそこに?」
「ええと、三十分くらい前から」
「……声をかけてくれてよかったのに」
「宗谷さんのこと待ってるの好きなんです」
ふわ、とした笑みが宗谷の顔に広がり、早智は思わず顔を背ける。
なんだろうか、今の表情。いきなりされると、とても心臓に悪い。
紅茶を飲んだ時のような、あの笑顔。きっと今の彼は、嬉しいのだろうか。
まだ付き合ったばかりで、彼にとって何が楽しくて、悲しくて、嬉しくて、つらいのか、手探りの状態だ。
今日のデートは、彼の色々な表情を見るための冒険の一日でもある。
人知れず決意を固めた早智と、表情の読めない宗谷のデートが始まった。
水族館に着き、様々なコーナーを見て回った。
クラゲのコーナーで興味深そうに説明文を読む彼、ペンギンのコーナーでなぜかペンギンと見つめあう彼。
昼食をとろうと館内のレストランに入り、注文をした後、宗谷はポケットから携帯を取り出した。
黒くてシンプルな彼の携帯はひっきりなしに振動しており、いったいどうしたのだろうかと疑問に思う。
他人の携帯事情を詮索してもいいものかと早智が悩んでいると、彼は迷うことなく携帯を彼女に差し出した。
「振動を止める方法、わかる?」
「止めちゃっていいんですか?」
「普段はあったほうがいいけれど、今だけ。うるさいから」
そう、普段はあったほうがいいのだ。
理由は、目の前に座っている彼女からの連絡にすぐ気が付くことができるから。
この携帯は無理やり買わされたものであったが、彼女との連絡が取りやすくなったという点では宗谷にとって何より有難いものだった。
彼女と付き合う、ということを念のため普段お世話になっている会長の神宮寺に報告したところ、彼は飲んでいた緑茶を吹き出し、そしてあれやこれやと男女交際の重要性を説き、そして最後にこう言ったのだ。
それなら宗谷、お前いい加減携帯を持て、と。
常日頃から連絡が取りづらいから携帯を買うようにと言われていたが、必要性を感じていなかったためにいつまで経っても買おうとしなかった宗谷。
しかし、「彼女と連絡が取りやすくなるぞ」と言われれば、心が動かないわけがない。
ぴくりと肩を揺らした宗谷の反応を見るやいなや、神宮寺はすぐさま若手の棋士を手配し、宗谷を取り囲むようにして携帯ショップへ向かわせた、という一連の流れ。
お前はマナーモードにしていたら一日以上連絡に気が付かないだろう、という神宮寺の言葉により、普段はバイブレーション機能だけはつけるようにしているのだが、今日はやたらと振動がうるさい。
その振動の原因は主に神宮寺なのであるが、誰からの連絡なのかは確認していないため、宗谷が知るはずもない。
彼女からの連絡に気が付くように、とバイブレーション機能を使っているのだが、今日は彼女が目の前にいるのだから、その機能は必要ない。
しかし、いまだに携帯の最低限の操作しか覚えていない宗谷にとってはどのように機能を切ればいいのかわからなかった。
彼女からの連絡に気が付ければいいのだ、とりあえずは。
「宗谷さん?」
目の前でこちらを覗き込む早智の顔に、ハッとする。
自分がついつい自分の世界に閉じこもりがちなのはよくわかっている。
そのことについて今まで気にしたことはなかったが、せっかく彼女が目の前にいるのになんだか勿体ないような時間を過ごしていた気分になる。
わずかに眉を下げながら、彼は「ありがとう」とお礼を言いながらバイブレーション機能が切られた携帯を受け取った。
やはりこのバイブレーション機能は必要だ。
彼女とのつながりを教えてくれるから。
「今日のデート、楽しくなかったですか?」
「……えっ?」
今日一日、彼を観察していて気づいたことがある。
彼の表情がふわっと緩んだのは、待ち合わせ場所で初めて会話をした時の一瞬だけで、そのあとは表情が変わることはなかった。
むしろ、お昼の時に携帯のバイブレーション機能を切ってほしいと頼んだ後に再び一点を見つめ始めた彼におずおずと話しかけた時に、眉を下げて悲しそうな表情をされてしまったくらいだ。
いろんな表情を見たいとは思っていたが、まさか悲しい表情を見るとは思わなかった。
彼は自分といる時より、彼の世界の中に閉じこもっていたほうがいいのかな、と思ってしまう。
「何故、そう思ったの?」
「宗谷さん、笑ってくれたのは最初だけで、あとはずっと表情が変わらなくて……お昼の時は、悲しそうな表情をしてました。それなら今までみたいに喫茶店で会って、紅茶を飲んだ時の宗谷さんの幸せそうな顔が見たいです」
彼女の想定外の言葉に内心動揺しつつも平静な顔を崩さなかった宗谷が、同じ顔のままでほっと胸をなでおろす。
いや、なでおろしている場合ではない。
彼女の誤解を解くべく、これから言葉を綴っていかなければならない。
これからは、今までとは違うのだ。
わかる人がわかってくれればいい、と他人任せにするのではなく、自分のことをわかってほしいと相手に伝えていかなければ。
隣にずっといてほしい、彼女にだけは。
「これから、伝えていく」
「……え?」
「早智にだけは誤解せずにわかっていてほしいから」
そう言って、本日二度目の緩めた表情を見せた宗谷を前に、早智は蒸発しそうなほどに顔を赤くするしかなかった。
← / →