あなたの趣味は何ですか、と聞かれたときに答えられるものがない。

学生時代は勉学に打ち込んできたし、社会人になってからは黙々と仕事をこなしてきた。

体を休めるために休日はあるけれど、本当にそれだけ。何か楽しみがあるだとか、そういったことは一切ない。

今までそのことについて深く考えたことはなかった。

それぞれ勉学や仕事といった目の前に集中するべきことがあったから、趣味なんて要らないと思っていた。

しかしある時ふと、虚しさを感じたのだ。

本当にこのままでいいのかな、私は何もしないで終わってしまうのかな、と。

何も世界を変えようだなんて大層なことを思ったわけではないけれど、もっと自分にも何かできるんじゃないかとそう思っただけだ。

いつもなら職場の壁に貼ってあるチラシなんて目にもとめないけれど、その時は偶然目に入ったのだ。

「社内将棋教室のお知らせ」という地味なチラシが、目の片隅に。





社内のシステムで参加希望の申し込みをして、いよいよ当日になってしまった。

ビルの一室にあるこじんまりとした会議室で開かれるらしいその教室は、業後の時間を利用して行われる。

やっぱり行くのをやめようかどうしようか散々悩みながらも会議室の前に到着すると、受付をしていたらしい人事部の職員と目がしっかりと合ってしまい、こちらが逃げ腰になる前に腕をつかまれてしまった。



「珍しいですね、苗字さんがこういったイベントに参加するなんて」
「帰ってもいいですか」
「ダメです」



これまで社内行事というものに一切関わってこなかったため知らなかったが、意外とこういった催しに参加する層は一定数いるらしい。

こじんまりとした会議室といえど20人くらいは座れるようになっており、開始時刻になればその座席はほとんど埋まる形となっていた。

今日の将棋教室の講師はまだまだ若い学生のプロの子たちであった。

学生でプロというのがまず驚きだし、むしろ学生といってもプロを講師として呼んでくるわが社のコネクションはいったいどこにという驚きもある。

一つの机に三人座るという座席配置図となっていたが、その机に1人ずつ講師がつくという形で教室が始まった。

名前が座るグループの講師は黒い髪に黒縁の眼鏡、一見するととても物静かな最年少プロだった。



「桐山零です。えっと、まずは駒の動きを確認していきましょう。将棋で使う駒はそれぞれ動ける範囲が違っていて……」



とても丁寧な教え方だった。このグループに参加していた人は全員が完全な初心者で、将棋の駒にも触れたことがない状態だったため、駒の材質などから教えてくれた。

あっという間の社内将棋教室が終わった後、「ありがとうございました」と頭を下げてから、ふと疑問に思ったことがあって口を開く。



「桐山プロはいつから将棋を?」
「うーん、正確には覚えてないです。物心ついたころには、すでに父が教えてくれていたんです」
「そうかあ……今から始めるには遅いかなあ」



仕事して将棋を指しているプロと、趣味として将棋を始めようとしている自分。

比べるのもおかしな話だけれど、無意識のうちに出てしまった一言だった。

名前のつぶやきを聞いた瞬間、桐山は目をぱちくりとさせた後、ふわっと笑った。



「遅いなんてことはないと思いますよ。将棋に興味を持っていただいてありがとうございます」



自分でも不思議だった。なぜこんな言葉が出てきたのか。

前は将棋は仕事として指しているもので、ほかの人に世界を知ってほしいだなんて思ったことはなかったのに。

将棋教室と称された空間の中、静かに将棋のことを聞いてくれていた彼女から出てきたつぶやきの一つに、ここまで反応してしまうなんて。

目の前でこちらの世界に興味を示してくれたその人を失いたくないと思ったのだろうか。

桐山の返答に対して今度は名前が目をぱちくりとさせた後、彼女も同じようにふふっと笑ってしまった。

初めてだ、こんな気持ちになったのは。

勉学でも仕事でもない、新しいことに挑戦することに胸が一つ大きく高鳴った。



END
2020/06/09

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