隣の部屋に住む人は、痩せていて、落ち着いていて、どこか不安定な子だった。

寝癖がついたままの黒髪に、黒縁のメガネ、ガリガリの身体にはいつも重そうなショルダーバッグが掛かっていて、荷物の重さで倒れてしまわないか心配になるほど。

たまに顔を合わせた時に挨拶をしてみても視線は合わない。

けれど、礼儀正しい言葉遣いとぺこりとお辞儀を返してくるところを見ると、悪い子ではないようだった。

隣の部屋からは物音がほとんど聞こえてこなくてたまに不安になるくらいだけれど、彼はたしかにここに住んでいるらしい。

そして、意外と彼との距離が縮まっていたこともわかった。

職場の飲み会で遅くなったある日、日付も変わった頃にマンションへ帰ってくると、廊下でうずくまる影があった。

その傍らで背中をさすっている人に見覚えはないけれど、壁によりかかるようにして顔を真っ青にしている人の顔を見た時、思わず目を見開いてしまった。

ああ、彼もこんな顔するんだな。



「桐山くん?」
「矢川、さん……」



思わず呼びかけてしまった声に反応があったのは予想外で、彼が自分の苗字を呼んでくれたことはさらに上を行く驚きだった。

それは自分たちの関係を知らないはずの第三者でも驚いたことらしく、桐山の背をさすっていた長身の人物はその手を休めることなくこちらに声を掛けてきた。



「桐山のお知り合いですか」
「ええ、まあ隣の部屋の住人です」
「すみません、お見苦しいところを。俺は島田と言います。実は……」



今日は彼らも飲み会だったらしく、桐山が慣れないお酒に酔っぱらってしまったこと。

島田の家で介抱しようとしたものの、桐山は「自分の家に帰る」の一点張りでここまで来てしまったこと。

いざ部屋に入ろうとしたところ、桐山がどこかで鍵をなくしてしまったらしく、手元にないこと。

仕方ないからタクシーで島田の家まで行こうとしたが、桐山が部屋の前から動こうとしないこと。

順番に説明されても困惑してしまうようなその内容に思わずさつきが笑ってしまうと、島田も困ったように微笑んだ。

ああ、もう、初対面の女性に何を話しているんだか……。



「ほら、桐山。俺の家までタクシーで行くぞ。最後は階段があるからちょっとキツイかもしれんが」
「嫌です。僕はこのマンションが好きなんです。離れません」
「あー、お前がここが好きなのはわかったからさ……」



酔っ払い側と、介抱する側のかみ合わない会話はどこまで行っても平行線。

無理やり肩を掴んで連れて行くという強引なこともできないのだろう、困った顔で桐山を諭す姿に心を打たれてしまったのか。

それとも自分も酔っぱらっているからなのか。

ぽろりと口からこぼれ出た言葉は、通常の自分ならば決して口に出さないものだった。



「桐山くん、よかったら家に泊まっていく?」
「えっ、何言ってるんですか……!」
「矢川さんの家に泊まらせてくれるんですか、やったー」



酔っ払いというものの行動力は計り知れない。

二人が意気投合して、さつきの部屋の前まで移動するのはそう時間がかからないことで、島田は慌てて二人を追う。

成人している女性の夜の部屋に異性が一人でノコノコと泊まるなんて、そんなこと許されるのだろうか。

最近の若者は皆こうなのか。俺の考えが古いだけなのか。

いや、古いだけと言われてもここで何か間違いが起きてしまったら。

ガチャリと開いた扉に一切の躊躇いもなく入っていく桐山に続いて部屋に入ろうとした島田は、ここではたと足を止める。

いやいや、ここで一緒に入ったら俺も桐山と同罪にならないだろうか。



「あんまり片付いてないけどごめんね、今布団敷くから」
「矢川さん、ありがとうございます」
「うわっ!?」



今日の彼は相当酔っぱらっているらしい。

ぎゅうっと後ろから腕を回されて抱きしめられているこの状態は、さすがにこちらの酔いが醒めた。

いくら年下の男性とはいえ力の差ははっきりとあって、ここまで強く抱きしめられては振りほどくこともできない。

もしかして自分はとんでもないことをしてしまったのではないか。

考えてみれば隣の部屋の住人とはいえ、よく知りもしない異性を部屋に招き入れて、挙句の上に泊まらせるだなんて。

どうしよう、どうすれば、とりあえずこの状況を打破するには。



「し、島田さーん……?」



知り合ったばかりの人に、助けを求めるしかなかった。

隣の部屋の住人がプロ棋士だと知ったのは、その夜のことだった。

自分と桐山、それぞれを守るために第三者という立場が必要だと考えたさつきは島田も部屋に朝までいるように勧め、結果的に桐山のことを教えてもらう夜になった。

男子高校生ながら自分一人で生活をして、お金を稼いで、自立している。

自分が高校生の時にそんな生活を考えられただろうか。

布団ですうすうと寝息を立てる桐山をちらりと見て、さつきは小さく息を吐いた。



「……あれ?男子高校生が酔っぱらってるっておかしくないですか?」
「……そこ気づいちゃいます?」
「島田さん!?」
「ハハハ……返す言葉もありません」



この島田という人もそうだ。

話を聞いていると、彼も地元の山形から中学生のころから東京に通っていたのだという。

ああ、みんなすごいんだな。自分の夢のために、一人で生きて戦っているんだ。

それに比べて自分は、とつい自分を卑下してしまうことを考えてしまった。

不意に暗い表情になった彼女に、「どうしました」と声をかけた島田は冷静だった。

この人も、不安定な人なんだな。

自分の存在が不確かで、それでも隣の住人を気にかけてくれる、そんな優しい人。



「皆きちんと生きてるんだなって……私も誇れるものの一つや二つ、あればいいのに」
「あると思いますよ」
「この数時間で何かあるように見えました?」



酔いは醒めたと思ったのに、再び回り始めてしまったらしい。

普段人に言うつもりのない弱い部分を、出会ったばかりの島田という男に伝えてしまった。

さつきが俯くと、俯いた先の視界が不意に暗くなった。

あれ、と思う前に響いてきたのは、耳元で響く熱い声。




「矢川さんの優しさ、俺は好きですけどね?」



私はとんでもない人に出会ってしまったのかもしれない。





END
2018/03/17

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