「冬司くん」 そう呼んでくれるのは、世界中を探しても一人しかいなくなってしまった。 寂しいと感じたことはない。 その声の優しさに、響きに、すべてに救われているから。 今の自分は、宗谷冬司という一人の人間ではないみたいだ。 「宗谷名人」「宗谷プロ」「天才棋士」、いくつもの肩書によって本当の自分がわからなくなりそうになる。 そんな時にいつも救われるのだ。 彼女の存在や、笑顔、自分を呼んでくれるその声に。 彼女の名前は矢川さつきと言って、小さいころからの幼馴染だった。 親同士の仲が良くて、よくお互いの家を行き来していたことも覚えている。 彼女の祖父が趣味で嗜んでいた将棋に興味を示したのは彼女の方が先で、彼女の気を引くために自分も一緒に習おうとしたという不純な動機はだれにも知られていない。 一緒に習って半年も経つと、宗谷は近所では負け知らずの少年となっていた。 こりゃあすごい、冬司はいつかプロになれるぞ、と周りから言われていたあの頃。 しかし周りの大人の声よりも、彼女の言葉のほうがよく覚えている。 将棋にのめりこんでいた小学生のころ、休み時間に同級生の男子に絡まれていた時のこと。 小学生ならばよくあることだった。 自分たちと違うことに興味を示す奴は変だ、という共通意識の結果、宗谷がいじめのターゲットになったのだ。 野球やサッカーにまったく興味を示さず、休み時間になれば将棋の本を読み続ける宗谷に対し、複数の同級生が冷やかしの声を彼に浴びせる。 宗谷はまったく気にしておらず、ひたすらに将棋の本を読み進めていると、それを面白く思わなかった男士に本を取り上げられてしまった。 そのまま本を破こうとする男士に対し、宗谷が静かに怒りをこらえていると、当時違うクラスだったさつきが現れてこう言ったのだ。 「冬司くんの好きなものを邪魔するなら許さない!」 普段おとなしい彼女が大きな声を上げ、自分を守ってくれた。 その記憶は鮮明に脳裏に焼き付いて、今も離れることはない。 宗谷が中学生でプロデビューを果たした時、誰よりも喜んでくれたのは彼女だった。 彼女は今でも「冬司くん」と呼んでくれて、実家に帰るときに立ち寄れば嬉しそうな笑顔を見せてくれた。 いつだったか、彼女に結婚の噂があった。 お互いに結婚を考えても良い年になったのだ、当たり前だろうと自分の中では納得していたつもりだったが、心にできてしまった大きな穴。 「結婚、するんだって?」 「冬司くん?誰からそんなことを」 「おめでとう」 彼から言われた祝福の一言は、驚くほどむなしい響きを伴って耳に入ってきた。 たしかに、結婚を考えている相手がいたのは事実だった。 しかしなかなか決心がつかず、悩んでいた時に言われた宗谷からの一言。 その一言で確信してしまった。 ああ、私はこの人が好きだったんだ、と。 感情を表に出さず、けれど心のうちに熱い気持ちを持つ、芯の通った彼を好きだったのはいつからだったのか。 物心ついた時から一緒にいたため、自分でもわからなかった。 「冬司くん、おかえり」 「ただいま。これ、お土産」 「いつもありがとう、対局お疲れ様」 一見すると夫婦のような会話にも聞こえるが、彼らの関係は幼馴染。 お互いの気持ちを伝えるには遅すぎて、わからなくて、踏み出すことができない。 宗谷はちらりと彼女の左手を見てから、小さく息を吐いた。 まだ、薬指に光るものはないらしい。 彼女を独占する権利なんて自分にはないのに、なぜこんなことを考えてしまうのか。 わずかに眉間にしわを寄せた宗谷の様子に、さつきは首をかしげる。 「冬司くん?」 「……さつきちゃん」 「懐かしいね、その呼び方」 ああ、彼女が好きなんだ。 あの時の記憶を呼び戻すかのように、当時の呼び方をしてみれば、彼女は変わらない笑顔で穏やかに笑っていた。 君はいつだって、僕にとってのヒーローだった。 そのヒーローを自分だけのものにしたいなんて言ったら、君は笑うだろうか。 「今度、一緒に将棋を打とうか」 「……そうだね」 そうしたら、この気持ちは伝わるだろうか。 END 2018/03/13 (20万ヒット企画)アリア様へ ←短編一覧 |