初めて見た瞬間、風が吹き抜けるように感じた。

薄暗かった景色に急に色がついて、世界が華やかになったのだ。

名前も知らないその人は、いつも誰かを待っているようだった。

その時点で自分に望みがないとはわかっていたのだけれど、姿を追う目を止めることができなかった。

将棋会館の外で寒い風が吹く中で立っていた彼女の頬は冷たさから赤くなっていて、吐く息の白さに目を奪われた。



「中に入ったらどうですか」



その言葉は優しさからか、下心からか。

自分でも無意識のうちに突いて出た言葉に彼女はハッと顔をこちらに向け、微笑んだ。

ああ、その笑顔は反則なんだ。こんな男にそんな笑顔を向けないでほしい。

これが彼女との出会い。寒い寒い冬の日のことだった。

彼女と出会ったのは将棋会館の外、そしてそれ以降に出会うのも必ず将棋会館だった。

理由はもちろん、彼女の待ち人がここにいるから。

島田さん、と自分を慕ってくれる後輩棋士こそが、彼女の待ち人。

ああ、なぜ彼なんだろうかと思ったのは何度目か。

彼のほうが出会ったのが先なのだから仕方ないだろう、と自分を慰めても、思いを止めることはできない。

名前も知らない、一目ぼれをする恋にこの年で落ちてしまうなんて、想像もしていなかった。

学生のような恋をしていないで、現実的な身の回りの異性に目を向けなければ。

そう思う心と、彼女を思う心は不思議なことに同じ心の中に共存しているというのに、正反対の位置にいた。

彼女に名前を聞かない理由は、たった一つの抑制だった。

名前まで知ってしまえば、きっと彼女のことを奪いたいと思ってしまうから。

そんな情けない姿は御免だ。

ああ、今日は彼女が将棋会館に来る日だったらしい。

ロビーに座る後ろ姿で一瞬にして彼女とわかってしまうあたり、自分は相当彼女に惚れ込んでしまっている。

声を掛けようかどうしようか悩んでいると、視線に気が付いたのか彼女はこちらを振り向いた。



「こんにちは、島田さん」
「こんにちは」



彼のことは名前だけ知っていた。

島田開。

いつも話題になることが多い「島田さん」という人の顔を、彼女は知らずにいた。

寒い冬の日のこと、いつものように人を待つために将棋会館に行ったものの、その日はあまりに寒くて、マフラーを巻きつけて小さく震えていた時だった。



「中に入ったらどうですか」



ああ、きっとこの人が島田さんなんだろうな、と一瞬で分かった。

話題によく出ている優しい「島田さん」という人物像と、目の前で控えめに声をかけてきた長身の人物が重なった。

そして鼻で笑われてしまうかもしれないけれど、自分はたしかにここで恋に落ちたんだと思う。

優しくされたから恋に落ちてしまう、だなんて自分とは無縁のことだと思っていたのに。

心配そうにこちらを見つめる瞳に、ドキドキしてしまったなんて絶対に内緒だ。

特に、あいつには。



「いちごちゃん、聞いてよ。今日すごく優しい人に会ったんだけど、あの人が『島田さん』かなあ?」
「真冬にバカみたいに外で突っ立ってた奴に優しく声をかけてくれた人のことなら、間違いなく島田さんだよ」
「なっ、バカって……龍雪!!私はあんたのために行ってあげたっていうのに……!」



こいつには絶対に聞かれてはいけない、と思って猫の「いちごちゃん」に話しかけていたというのに、双子の兄の三角龍雪はココアを目の前のテーブルに置きながらニヤリと笑った。

ああ、この男が憎い。

この男のために将棋会館に行ったからこそ島田さんにも出会えたのだけれど、こいつにだけは知られたくなかった。

兄曰く、この日の出会い以降も島田は名前のことを兄に訊いてくるということはしていないらしい。

島田の前で「龍雪」と呼び掛けるところは何度か見られているが、島田はどこか別の方向を向いてばかり。

ああ、彼は私に関心がないのだな、と痛いほどわかるのに、諦められないなんてどうすればいいんだろう。

不毛な恋、と兄によって名付けられた恋はまだまだ終わりそうにない。



「私が将棋会館に行くのをやめれば、この思いも忘れられるかな」
「島田さんに会える唯一のチャンスなのに、そんなことして大丈夫?お前死んだ顔にならない?」
「それを言わないで……」



まったく協力する気がない兄に笑われながら、こんな恋をしてしまう私は馬鹿だ。

少しは妹の幸せを願ってはどうか、と睨みを利かせても、兄はどこ吹く風と言った様子でいちごちゃんと遊んでいる。

兄は完全に楽しんでいる。

曰く、島田さんの前で猫をかぶったようにおとなしくなっている私を見ているのが面白いのだとか。

当たり前だ、私だって兄や父といった家族以外の異性の前に行けば緊張だってする。

その様子を近いところから観察されていれば、どれほどやりにくいかわかるはずなのに。



「もう、早く出かけてよ!それで今日はケーキ買って早く帰ってきてよ」
「はいはい……お互い良い年なのに祝ってもらう相手もおらず、兄妹同士で誕生日を祝うとは悲しいさだめ」
「早く行って!」



別に妹の幸せを願ってないわけじゃない。

できれば普通くらいの幸せを掴んでほしいとは思っているし、その相手として島田は最高の相手だということもわかっている。

島田が相手になれば普通どころか、それ以上の幸せが待っているということも。

二人して勘違いを繰り広げている様子が面白かったから、という理由で今まで先延ばしにしてきた。

そして妹に、彼女に大切な人ができるという事実が妙にむず痒かったというのもある。

それも今日でおしまいだ。

どちらから先に仕掛けようかと考えた末に、たどり着いたのは男のほうだった。

将棋会館の扉をくぐれば、待っていたかのように彼はいた。



「おお、誕生日らしいな。おめでとう、スミス」
「ありがとうございます、島田さん」



どこまでも人の良い顔。

彼なら妹を任せられる。そう確信できた。



「俺のことをいつも待っている彼女なんですけどね、彼女も誕生日なんですよ」
「……へえ、同じ日に誕生日だなんて運命的な彼女だな」



本当はそんなこと微塵も思っていないくせに、笑って祝福してくれる島田の顔を見ているのは複雑な気分だ。

彼の本心は、こんなところにはない。

悔しいけれど、あの妹のことを一番に考えてくれているのだろう。



「……ま、俺の双子の妹なんで当たり前っちゃ当たり前なんですけどね!」
「そうか、双子のいもう……はあ!?」
「さつきのこと、よろしくお願いしますよ、島田さん」



やれるだけのことはやった。

ここから先にどうやって展開を進めていくかは、彼ら次第だ。





END
2018/1/3

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