初めて行く場所は、とても神聖なところだった。 何も知らずにいたら、街並みの中の一つとして通り過ぎてしまうような建物。 けれど、その建物の中で勝負している人にとっては特別な場所。 熱い魂のぶつかり合いが今日も行われているその場所に、初めて行くことになった。 どんな場所なの、と彼に訊いてみても「別に何もないよ」と笑って返されていたその場所は、彼にとっては間違いなく人生の中で一番大切な場所。 そう簡単に足を踏み入れてはいけないだろう、と今まで一度も行ったことがなかったけれど、ついにお呼びが掛かってしまった。 いつも着けている腕時計を忘れてしまったから持ってきてくれないか、という電話一本があった三十分後、その場所の最寄駅にたどり着いてしまった。 今日は対局の日と言っていただろうか、と疑問に思ったものの、問いただす前に電話は切れてしまい、真相はわからずじまい。 とにかく早く行かなければ、と駅の改札を出て、地図アプリを頼りに足を進める。 今の時代は便利だ。方向感覚が多少鈍くても、目的の場所まで行くことができる。 文明の発達に感謝しつつ、歩くこと早三十分。おかしい。こんなに掛かるはずがない。 地図アプリを見てみれば何度も同じ場所を歩き続けていたのか、目標地点までの距離があまり縮まっていない。 文明の発達よりも、自分の方向感覚の鈍さが勝ってしまった。 ああ、どうしよう、彼が待っているのに。電話しようかな。 冷たくなる指先でスマートフォンを握り締めていると、ふと視界の端に見知った影が映った。 その人影はこちらのことを知らないだろうと思う、しかしこちらは確実に彼を知っている。 そして、彼は本来ならば自分のような人間が気軽に話しかけていい人ではないこともわかっている。 しかし、今は背に腹は代えられないのだ。 あとでどんなお咎めも受け止めるから、今だけは彼に話しかけさせてほしい。 「すみません、将棋会館の場所を教えていただいてもいいですか」 「……?はい、いいですよ」 一瞬怪訝そうな顔をされたものの、すぐにふわりとした笑みと共に言葉が返ってきた。 どうやら連れて行ってもらえそうだ。 拒絶されなくてよかったという安堵と、これで間違いなく将棋会館に行けるという確信が生まれ、ほっと息を吐く。 自分の名前を名乗り、知り合いの忘れ物を届けに行くのだという話をすると、彼は言葉少なに「そう」と言いながらもどこか楽しそうだった。 自分の世界に常にいる人なのだろうか。なんだか雰囲気が柔らかく感じたのは、どうしてだろうか。 会話が盛り上がるわけでもなく、二人並んで街を歩いていただけなのに、静かな空間は居心地がよかった。 不意に、しんと静まっていた中をかいくぐるように「ここだよ」という声が聞こえた。 将棋会館という立札がたて掛けられた、一見するとなんの変哲もない建物。 思わず背筋が伸びてしまったのは、彼が懸ける思いを知っているからだろうか。 口を真っ直ぐに結んで建物を見つめる彼女をちらりと見やり、彼こと宗谷冬司は静かに歩き出した。 慌てたように後ろを付いてくる彼女の足音に、思わず笑みをこぼしてしまう。 「あ、宗谷さん笑ってないですか?」 「笑ってないよ。君、僕の名前知ってたんだね」 「ええ、それはもちろん。だって」 「あーあー、宗谷くん、宗谷冬司くん、と、横の女性、の方、ちょっとよろしい?ねえ?お二人どういう関係なの?」 ちょうど玄関にたどり着いたところだった。 さつきが理由を説明しようとしたその時、割り込むようにして入ってきた声があった。 将棋連盟会長、神宮寺。初老のその男性は、彼女にとってはもちろん将棋界ファンにとってはレジェンドと呼ぶべき存在であった。 しかしそのレジェンドはただいま、ただの野次馬と化していた。 普段まったく女っ気のない宗谷の横に女性がいる、つまりこの女性は、宗谷の、そう、宗谷の、まさか、ついに宗谷にその時が来たのか。 朔ちゃんどうしよう、ねえ朔ちゃんどこよ、朔ちゃんは。 将棋界で長年共に戦ってきた戦友の名をうつろに呟きながら、視線はしっかりと宗谷と女性をとらえる神宮寺。 あまりの目力の強さにさつきが逃げ腰になっているところを見て、宗谷は呆れたようにため息をついた。 もう少しで転びそうになっている彼女の腰にそっと手を差し伸べつつ、重い口を開く。 「会長、彼女は」 「近々嫁になる予定の方ですってか!!?」 「違います!!!!!」 神宮寺の暴走は止まらない。 ロビーで絶叫に近い声でとんでもないことを言い出す神宮寺の言葉を、それ以上の大きさの声で突き破ったのはまた別の男だった。 その男こそが、彼だった。 そしてこの状況を作り上げてしまった張本人でもあった。 彼、島田開は矢川さつきの恋人であり、腕時計を忘れたと主張し、将棋会館まで届けに来てくれと頼んだ人物である。 なぜそんなことをいきなり頼んだのか。 それは、今まで将棋会館に一度も来たことのない彼女に、自分の世界を知ってもらいたかったから。 実を言えば、今日は対局がなかったため腕時計は必要なかった。 年下の彼女に何か頼めばすぐにその頼みを承諾してくれることも知った上での、誘い。 彼女は将棋会館に来て、どんな反応をしてくれるだろう。 棋士たちを見て、何を感じるだろう。 そして自分を、どこまで受け入れてくれるだろう。 そう考えて誘ったことが、まさかこんな事態を引き起こしてしまうなんて。 そろそろ来るだろうかとロビーで待っていた矢先、玄関で騒ぐ神宮寺たちのすぐそばに見つけたのは彼女と宗谷の姿。 同期である宗谷と彼女が並ぶ姿はあまりにも絵になっていて、思わずカッとなってしまったところもある。 島田とさつきが並ぶ姿は少なからず年の差があることを感じざるを得ないものになってしまうと自覚していたものの、宗谷と彼女ではどうか。 若々しい、自然なカップルのように見える。 違う、彼女の隣にいるべきなのは宗谷ではない。自分なのだ。 「会長!俺の彼女です!!!」 「島田の彼女!?お前彼女なんている顔色じゃないぞ!?宗谷と比べると男前でもないし!?」 「顔色はもとからです!なにどさくさに紛れて失礼なこと言ってるんですか!」 思わず彼女の腕をつかんで、ぐいっとこちらに引き寄せる。 ぽかんとした表情の彼女にはわからないだろうが、これは男のプライドというやつだ。 誰の横にも立たせたくない。 願わくば、ずっと腕の中にいてほしい。 言い合いを続ける島田と神宮寺、そして島田の腕の中で顔を真っ赤にしているさつき、何事かと集まってくる職員や棋士、ひたすらに傍観を続ける宗谷。 ようやく二人の言い合いが落ち着きを見せ始めたころ、宗谷はぽつりと島田にだけ聞こえるように呟いた。 「知ってたよ」 「……え?」 「島田の彼女だってすぐわかった。島田に雰囲気がそっくりだ」 ああ、このタイミングでそんな言葉。 島田もさつきもお互いに頭を抱えるようにしてへたり込んだ様子を見て、将棋の神様は再びふわりと笑った。 END 2017/11/28 (20万ヒット企画)優香様へ ←短編一覧 |