俗に言う「一目ぼれ」というものだったのだろう、と今になって気づく。 初めて彼女に会ったのは、将棋会館の玄関だった。 何かのチラシを片手に不安そうに建物を見上げる彼女の横を通り過ぎようとしたら、声を掛けられた。 「あの、すみません」 「……はい?」 「今日の将棋体験教室の受付って、どこでやっているんでしょうか」 まっすぐにこちらを見つめてくる瞳から、目をそらすことができなかった。 将棋体験教室というものがどこで行われているかわからなかったから、一緒に探そうかと一歩足を踏み出すと、慌てたように追いかけてくる姿。 置いて行かれまいと必死に駆け寄ってくる姿に覚えた感情は、なんだろうか。 むず痒いような、微笑ましいような、あたたかい気持ち。 自分たちで探すよりも会長に聞いた方が早いかと考えていると、玄関脇にある事務室からパタパタと事務員が出てきて、あっという間に受付の場所は判明した。 最初から受付に聞けばよかったのに手間をかけさせてすみません、とぺこぺこと謝ってくる彼女の言葉にこちらが申し訳なさを覚えていると、奥から人影が現れた。 ああ、騒々しい人の登場だ。 「宗谷、遅かったじゃないか!……女性と一緒……!!?」 「宗谷さん?宗谷……そ、宗谷名人……!?」 宗谷と、その横にいる女性の姿に激しくショックを受けているらしい人物と、宗谷が何者であるかを今しがた知った様子の女性。 ああ、私はなんて人に受付の場所を聞いてしまったんだろう。 将棋に疎い自分でも知っている唯一のプロ棋士、宗谷冬司。 詳しいことはさっぱりわからないけれど、最年少のタイトル獲得、だとか何度目の防衛、だとか、とにかくすごい人だということはテレビや新聞のニュースで知っている。 先ほどの自分はようやく将棋会館までたどり着けて安心したのも束の間、今度は受付の場所がわからずに混乱していたとはいえ、声をかけていた人がテレビの向こうに映る人だったなんて。 もう一度頭を下げておこう、と彼女が宗谷に向き直る前に、ショックを受けていた人物がハッと我に返る。 この人物は神宮寺崇徳。 日本将棋連盟の会長を務めており、将棋ファンによっては宗谷よりも崇拝の対象となっている人物なのだが、彼女は知る由もない。 初老の男性である神宮寺は、そわそわとした様子で彼女に声をかける。 「えーと、お、御嬢さんのお名前は?」 「矢川さつきですが……?」 「そ、宗谷とはどのようなご関係で?」 「先ほど受付の場所を教えてもらおうとしたご関係です……?」 とにかくごめんなさい、と頭を下げて教えてもらったばかりの受付へと消えていく彼女に、「あっ!?」と驚く神宮寺と、咄嗟に目で追うだけの宗谷。 なーんだ偶然一緒にいただけか、と目に見えて落ち込んだ様子の神宮寺を後目に、宗谷は小さく息を吐いた。 そう、ただ偶然声を掛けられて、一言二言会話をしただけ。 神宮寺は大げさなのだ。「コイ」をしろだの、「アイ」を知れだの、そんなことばかり気にしてるから。 その時宗谷は、まだ気づかなかった。 自分もいつの間にか、そんな言葉に魅了されていたことを。 もう一度同じ人に会ってみたいと思ったことは、何も初めてではなかった。 一緒に将棋を指して、独自の世界を作り上げていく人や、自分自身にない感性を教えてくれる人など、自分にとって利益のある人には何度でも会いたかった。 しかし、彼女はどうだろう。 彼女は自分に何かをくれたわけではない。 有意義な時間をくれたわけでも、何かを教えてくれたわけでも、特別なことをしてくれたわけではないのだ。 それなのに、もう一度会いたいと思った。 名前は知っているけれど、もう会うことはないという事実を、とてももどかしく思った。 そんな思考が頭の中を駆け巡って、どうも将棋に集中しきれない。 他の人では気付かなかったであろう宗谷の変化にいち早く気が付いたのは神宮寺だった。 最近どうしたよ、と軽い世間話でもするように話しかけてきた神宮寺に、彼は素直に打ち明けた。 今思っていること、感じていること、どうにもスッキリしないこと。 その理由はなんであるのか。 わからないことだから尋ねたというのに、すべてを聞き終えた神宮寺は明るい顔をして笑い飛ばした。 ばーか、それはお前が「コイ」してるんだよ。 コイ。いったいなんのことだろうか。 「とりあえずお前は今日本屋に寄って「コイ」って名前が付く本を片っ端から10冊買って読め。将棋の研究よりも前にな。以上!」 やけに嬉しそうに言う神宮寺の様子が気になったものの、ほかに解決策がないのだから仕方ない。 了承の意味を込めて頷いて、彼は将棋会館を後にした。 本屋に行って、本を買っていると、カウンターにいた店員は驚いたように宗谷の顔と本を見比べた。 三十代後半の男性があらゆる「コイ」の本を買い込んでいるのだから目立つ光景である。 当の本人は気に留める様子もなく本屋を出て、自宅に戻り、本を読み込み、そして気が付いた。 自分は、「恋」をしているのだと。 本の中に出てくる登場人物が抱えている悩みや、「恋」の定義の解説を見ていると、今の自分にぴったり当てはまってくる。 そうか、これが神宮寺の言う「恋」なのか。 わかったところで、いったいどうしろというのか。 彼女に会うことはもうないのだ。 彼女は将棋体験教室に来たと言っていたけれど、あの不慣れな様子からして将棋会館に来たのはあれが初めてだっただろうし、別れるときは妙に恐縮していたからもう一度将棋会館に来るとはとても思えない。 ああ、さびしいという気持ちはこういうことか。 ぽっかりとできた心の穴を埋めるために、将棋の研究に没頭する。 もう、彼女に声を掛けられることはない。出会うことはない。目を見つめられることもない。 そう、思っていたのに。 「わっ、わっ!!?宗谷名人!」 「……どうして」 「体験教室の申込書に不備があったと聞いてまた来てみたんですけど、また宗谷名人に会ってしまうなんてもうどこの穴に隠れればいいんだって感じなんですけど、えっと」 どうして、もう一度会ってしまったんだろう。 「恋」を知ってしまった自分には、彼女に出会ってから感情をどう制御すればいいのかなんてわからないのに。 伝えたかった言葉はたくさんある。縮めたい距離もある。 いったいどこから話し始めればいいのだろうか。 「まあゆっくり腰落ち着けて話してみればいいじゃないか、お二人さん」 すべては彼の言うとおり。 年長者の言葉から、彼らの付き合いは改めて始まった。 そして結婚式での30分にわたる熱のこもったスピーチまで任されるとは、この時はまだ誰も知る由もない。 END 2017/09/13 (20万ヒット企画)わさび様へ ←短編一覧 |