一日お疲れ様でした、という言葉を口にしながら事務局を後にする。

今日は薄手のカーディガンが必要なほどの涼しさで、徐々に秋が深まっていることを感じさせる。

将棋会館の入り口の扉を開けば、外から入り込んできたのは涼やかな空気。

時刻は既に夜となっており、寂しげに立っている街灯の光がチカチカと点灯している。

電灯交換するように手配しなくちゃな、とさつきがその街灯を見上げながら歩いていれば、先ほど閉めたばかりの将棋会館の扉が後ろで大きく開く音がした。

誰かが激突したのではないかと勘違いするほどの大きな音であったにも拘わらず、さつきは後ろを振り返ることもなく歩みを速めた。



「さつきさん!今晩はお風呂にしますか、ご飯にしますか、それとも俺にしますか!俺ですか、そうですか!」
「冗談は顔だけにしてくださいね、松本君」
「冷てぇ!さつきさん冷てぇ!この夜の冷気のごとく冷てぇ!」
「………」



心の折れない男。

さつきの中での松本一砂のイメージである。

将棋会館の扉を大きな音を立てながら開けたのは彼であり、現在さつきの周りを囲むかのように移動しながら話しかけているのも彼である。

さつきの物言いに対してオーバーなリアクションを取りながらも、松本がさつきから離れる気配は一向にない。

彼に出会ったのはいつであっただろうか。

ちょうど将棋会館の職員としてさつきが採用された年は、松本がプロ棋士の道を歩み始めた年でもあった。

お互いに緊張していた初日、ちょうど棋士会館1階のロビーで一緒にお昼を食べたのが始まりだったと思う。

年齢は松本のほうが2つほど若く、「さつきさん」「松本君」という呼び方はあの時から変わっていない。

唯一変わったのは、ただ一つ。



「さつきさん!どうしてそんなに冷たいんですか!」
「いい加減気づこうね、松本君。私がストーカー被害で警察に行ったら普通にあなた指導受けるからね」
「ええっ!?俺のことそんな風に思ってたんですか!」



松本の思いである。

いつからかは正直言ってわからない。

いつの間にか松本はさつきの周りをやたらと付きまとうようになっていたのだ。

もちろん本気でストーカー被害届を出そうとはさつきも思ってはいない。

しかし、やたらうるさい。

これだけは言えることだ。



「…もっと寡黙な人がいいんだけどなあ」
「え?なんですか、さつきさん!」
「もっと寡黙な人が私は好きだな、って話」
「か、寡黙な人…!?そそそ、それは誰ですか、将棋会館の人で言ったら誰なんですか?」
「会館の人で言ったら?うーん、隈倉さんかなあ」



即座に思いついた人物の名前を出すと、それ以降松本の口が閉ざされる。

あまりの静けさに逆に違和感を覚えたさつきが話しかけてみても、上の空の答え。

うるさいけれど、静かだとこちらも調子が狂う。

黙り切った状態のままの松本と共に、夜のバス停へと向かう。

結局、彼はさつきの家の前まで付いてきて、「それじゃあおやすみなさい」といつになく静かに言った後に去って行った。

家の前まで送ってくれる、というよりも勝手についてくるのはいつものことだ。

しかし、あの静けさは一体全体どうしたというのだろう。

気にかけながらも、さつきは眠りについた。

明日は普段の彼に戻っているといいのだが。





「…矢川、少し聞きたいことがあるのだが」
「どうしました、隈倉さん」
「アレに何を吹き込んだ?」



翌日、厳しい表情をして事務局にやってきた隈倉に連れられるがままにさつきは将棋会館への入り口へと向かう。

やがて入り口が見えてくると、隈倉が口を開き、その視線の先をさつきが追う。

その場所を見れば、松本が隈倉のいつも着ているようなロングコートを着込み、両手を高々と上げているではないか。

傍らには、松本と仲が良いとされるスミスもいる。

そしてその2人の会話が徐々に聞こえてくると、さつきは額に手をついた。



「どうよ?隈倉さんの風格出てる?出ちゃってる?」
「おー、いっちゃんすげえ!ていうか靴のサイズ全然合ってねえ!」
「このサイズの靴を買えば俺も隈倉さんの風格出るってことだろ?さつきさん待っててくださいよー!」

「……どういうことか説明してもらいたいのだが」
「すみません、隈倉さん…」



冷めた目でこちらを見る隈倉さんに対し、必死に頭を下げるしかない。

単純な奴でごめんなさい、隈倉さん。

でも憎めない人なんです。

…少なくとも私にとっては大切な人なんです。



END
2012/09/20

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