カチャ、と玄関のドアが開く音がした。

その音に反応し、島田は読んでいた本から顔を上げて立ち上がる。

今日は飲み会があるから先に寝てていいよ、と言っていた彼女。

先ほどカーテンを開けて見ることができた空は、墨で空全体をちりばめたように真っ黒で、ところどころガラスの欠片のように星が瞬いていた。

深夜と呼べるような時間帯になった空気は、体の中に入ってくると冷気が体を通り抜けていくようだった。

普段、お互いに飲み会があったり用事があった時に遅くなる場合は、先に眠るようにしていた。

いつも見るのは次の日に太陽が昇ってしばらく経っても熟睡している相手の寝顔を見るだけ。

今日はあまり睡魔も襲ってこなかったため、どうせなら彼女が帰ってくるまで待っていようと読書を続けていた室内に流れていたのは静寂のみ。

リビングに向かって歩いてくる彼女の足音もよく聞こえて、島田は微笑みを浮かべて廊下へ続くドアを開けた。



「おかえり」
「ただいま。電気が点いてたからまさかって思ったんだけど、起きてたんだね」
「なかなか眠くならなくてな」



地元の友達が久しぶりに都内に集まるから、という理由で飲み会に出かけたさつきの顔はわずかに赤くなっていた。

決してお酒に弱いわけではない彼女の頬が染まっているということは、今晩は相当な量を飲んだのだろうか。

その割には、彼女の身に着けた衣服からはタバコと香水が混ざり合った匂いがしてくるだけで、アルコールは感じさせない。

タバコは吸わず、香水も普段はつけない彼女からそのような香りがしてくるだけでも珍しいことなのだが、十数年ぶりに会う人もいると話していたから仕方のないことなんだろうか。

服から漂ってくるタバコの煙の香りが自分の心をも覆い尽くしていくようで、妙にもやもやする。

しかしアルコールの影響なのか、それとも久しぶりに会った友人たちとの再会が嬉しかったのか、普段よりも笑顔がさらに柔らかく見える彼女に水を差すようなことは言えない。

楽しかったならよかった、と心からの笑顔を作って再びソファに戻ろうとすれば、不意に背中から抱き着かれた。

後ろから島田の腰に手を回しているのは間違いなくさつきなのだが、島田は突然の出来事に固まっていた。

普段、彼女は自分から抱き着いてくるようなことはしない。

公の場所はもちろん、こうした部屋の中でだってほとんど求めてくることなんてなかったのに。



「…どうした?」
「友達に、『そのままだと彼氏取られるよ』って言われて」
「え?」
「『お前は前から甘えるのが下手だったから、相手に嫌いだと勘違いされる』って」



さらに強い力が篭められた彼女の手は、わずかに震えていた。

十数年ぶりに会った友人に言われて、不安になったのだろうか。

彼女が甘えることが下手だということくらい、とっくにこちらもわかっている。

その友人とやらと毎日のように親交があった彼女のことは知らない。

しかし、今のさつきのことなら他の誰よりも知っている自信がある。

嫌いになる、だとか勘違いする、だとかそんなことを勝手に言わないでほしい。

もっと自分を、信じてほしい。



「さつき」



腰に回されていた彼女の手をほどき振り返ると、不安な様子でこちらを見上げているさつきの姿が目に入った。

さきほどの手の震えからも想像がついていたが、彼女がどれほどの勇気を振り絞って、アルコールの力に頼ってあの言葉を放ったのかがよくわかる。

普段ならゆっくりと飲む酒も、きっと酔いが早く回るようにとハイペースで飲んだんじゃないだろうか。

頬を染めているのに伏し目がちな矛盾した彼女の表情に心奪われ、気付いた時には唇を重ねていた。

ぬくもりの先から、アルコールの独特の苦みが伝わってくる。



「今日はだいぶ飲んだのか?」
「ごめん、さっきのことを元彼から言われたから、開はどう思ってるんだろうって不安になっちゃって、つい」
「……元彼?」
「あ、いや、高校の時に同級生と付き合ってた、というか、久しぶりに会って」



しどろもどろで返してくる彼女を疑うわけではないし、今日久しぶりに会ったというのも本当なのだろうと思う。

しかし、彼女の服から香ってくるこのタバコの匂いも、複数の香水が混ざったような匂いも、すべてが歯がゆかった。

今のさつきを、すべて自分のものにしたい。

先ほどまで彼女の心を揺さぶっていたかつての恋人であった男も、地元の友人たちも、何もかもなかったことにして。



「その服、脱いでもらえるか」
「…あ」
「…すまん、しばらく寝かせられそうにない」



夜が明けるまで、付き合ってほしい。

自分の名前を、何度でも呼んでほしい。

アルコールと共にすべて忘れてほしいなんて、我儘が過ぎるだろうか。





END
2017/02/25

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