さぞ声のかけづらい男だったろうと思う。

あの時はまだ東京に来たばかりで、慣れない街の景色に色がついていなかった頃。

右も左もわからず、安定した将棋も指せず、普通の生活を送ることが難しかった。

季節は春から夏に変わる頃だったため凍死はせずに済むものの、経済的にかなり厳しい状況だった。

家賃と光熱費はかろうじて払えていたものの、食費に回す金の余裕はなかった。

明日食べるものをどうしようか。

一日一食が当たり前の生活の中で、がむしゃらに将棋を指す。

将棋を指すことが楽しい、なんて言っていられなかった。

すべては明日暮らす金のため。

しかし栄養の足りていない頭で自分より実力に溢れている先輩棋士たちに勝てるはずもなく、まさに負のスパイラル。

涼しさが出てきた夜に、公園のベンチに腰を下ろす。

家に帰っても何もない。

電気を無駄に使うことも控えたいため、この頃はずっと寝る直前まで外に出ることにしている。

その方が涼しいし、何より何も考えなくて済む。

きゅるる、と一人の公園に自分の腹の音が空しく響き渡った。

今日は朝の一食しか食べ物を口に入れていない。

明日の朝になったら何か食べよう、と固く決意はしているものの、この空腹感は不快である。

家に帰って早く寝てしまった方が楽になるかもしれない。

頼りない足取りで立ち上がった島田の背中に、若い女性の声が掛かる。



「…あの」
「はい?」
「今、お暇でしょうか」



おずおずと掛けられた声は、言葉だけ汲み取ってみれば立派な「ナンパ」にも聞こえる。

しかし島田が振り返った先にいたのはまだ糊のきいたようなスーツを着た若い女性で、手に持つ鞄も傷一つ付いていないように見えた。

時間帯的に会社帰りか何かなのだろうが、一体どうしたというのだろう。

恐怖感を与えないようにとなるべく笑顔を浮かべて答えれば、先ほどよりもいささか安心したような表情で彼女は続ける。



「屋台のラーメン屋に付き合ってくれませんか?」
「…は?」



今思えば、なんとも彼女らしい願いだったと思う。

彼女の名前はさつきといって、春先に東京へ出てきたばかりの新社会人であった。

年齢的には島田と同じであり、二人はすぐに打ち解ける。

ずっと会社の帰りに屋台でご飯というものに憧れていたものの、東京で出来た友人には話しづらい提案だったこと。

かといって一人で行く勇気もないため、この一、二か月の間ずっと我慢していたこと。

しかしもう我慢の限界であり、つい公園でお腹を空かせたような島田に声をかけてしまったこと。

あらかたの話が尽きた後、「無理やり付き合わせたのだから」とラーメンの代金を払おうとするさつきの申し出を島田はあわてて止める。

いくら金に困っているからと言って、女性に奢ってもらうのはプライドが許さない。

自分の分は自分で払いますよ、と言おうとした島田をさつきが遮った。



「私、本当は知ってるんですよ、島田さんのこと。前に一度だけ雑誌で見たことがあります」
「え…」
「同じ年なのに大人がたくさんいる世界で一人戦ってるって知って、すごく勇気づけられたんです。東京に来る時も、『あの子も中学生のころからがんばってたんだから』って思って」



一気に言い切ったさつきは、そこで一呼吸おいてから笑って言った。



「だから、払わせてください。今までのお礼です」



久しぶりに食べた温かいもののせいか、体の芯から温まったように感じる。

そこに、目の前のさつきの笑顔が重なった。

無意識のうちに口が動くということは、本当にあることなのだと思う。



「今度は、俺があなたにお礼をさせてください」



底の見えない砂の中から救い出してくれたあなたへ、次は自分が勇気を与えたい。

幸せを、共有したい。



END
2013/08/22

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