大学進学と同時に、親元を離れた。

初めての一人暮らし。

気軽に世間話をできる人もいない、一人ぼっちからのスタート。

大学の入学式まではあと数日あり、それまで一人きりで部屋にこもるのは嫌だった。

少しでも外の空気を吸おうと外に出てみれば、一人のおばあさんが大きな買い物袋をぶら下げて歩いていくところを見かけた。

この先に続くのは、ゆるやかだけれど長い坂。

この近くには観光名所としても有名なお寺があるのだが、観光客はほとんど通らない人通りの少ない道。

自分とおばあさんしかいない状況で、さつきは意を決して駆け寄った。

今までの自分ならば、きっとこんなことはしないはず。

しかし今は、人と関わりたかった。

知り合いのいないこの町で、話す相手が欲しかった。

おばあさんはこの坂の途中に住んでいるのだという。

家に向かう途中で、さつきはこの町やおばあさんの家族構成について教えてもらった。

この町で何年も、孫と二人暮らしをしていること。

その孫も、仕事の関係で家にいないことが多いということ。

おばあさんの家に着くと、そこは先ほどの有名なお寺のすぐ近くだった。

しかし不思議なほどにうるささは感じられず、木々に囲まれた静かな環境。

お礼もしたいからまたぜひ来て、という言葉に甘え、さつきは何度もおばあさんの家を訪れた。

そしてその中で、彼女の孫である宗谷冬司にも出会ったのだ。

彼のことは知っていた。

現代最高峰の将棋の神様。

京都在住ということもあり、度々報じられていた彼のことを知らないわけがなかった。

初めて会った時は、それは緊張したものだった。

おばあさんのところに遊びに来たつもりが、男性である宗谷が玄関口に現れたために驚いたというのもまた事実。

何か用、と訊かれて「おばあさんのところに…」と言いかけたところで、射抜くような目をしていた彼の表情が変わったのだ。



「もしかして、矢川さん?」



祖母から話は聞いていたのか、途端に表情が和らいだ彼に目を奪われてしまった。

将棋を打っている時の彼は、表情をほとんど変えることがない。

将棋盤を見つめたまま、時々考え込むような表情をしながらも、芯は無のままなのだ。

インタビューを受けている時の彼は、対照的ににこやかだ。

質問と少し食い違うようなことを言っても「天才だから」と片付けられる彼の笑みは、誰も寄せ付けない。

笑顔のはずなのに、それ以上の踏み込みを拒んでいるかのよう。

しかし「祖母」の話題を出した時、彼の顔は途端に緩む。

祖母思いの一人の青年の表情がそこには浮かぶのだ。

月に数度か宗谷の家に遊びに行くようになってから、既に一年が過ぎた。

さつきにとってこの家に来ることは、第二の実家に帰ってきているような気持ちである。



「おじゃまします」
「いらっしゃい」
「こんにちは、冬司さん。おばあさんは?」
「買い物に行ってる」



数年経ってもなお、祖母の話をする彼が好きだ。

初めて会った時から、ずっと。

この思いを言ったことはないけれど、言う予定もない。

嬉しそうに話す彼の顔を見ているだけで十分なのだ。

月に何度か、こうして顔を合わせて話すだけで。



「矢川さん、今日時間は?」
「たっぷりです。バイトもないですし」
「そう。…付いてきて」



彼女がどんな気持ちでこの家にやってきているのか、それは宗谷には想像のつかないこと。

祖母と話をするためだけに来ているのだろうか、それとも寂しさを紛らわせるために来ているのだろうか。

もし前者だとしたならば、宗谷の胸は小さく痛む。

まるで、自分に会っても会わなくてもどちらでもいいような気がするから。

なぜそう思ったところで胸が痛むのか、彼自身もよくわかっていない。



「将棋、打とう」



玄関から彼女の手を引っ張ってきたのは、将棋盤の置かれた和室。

なぜここに連れてきたのか、その理由は一つだけ。

自分の世界のすべてである、将棋を知ってもらいたかったから。

人を寄せ付けるような笑顔を浮かべた宗谷に、さつきは目を離すことができなかった。



END
2013/05/22

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