人を連れてくる、とたしかに彼は言っていた。 珍しいこともあるものだ。 普段、人と話す姿なんてほとんど見たことがないのに。 将棋会館にいても、どこにいても、彼は一人きり。 「誰だろうなあ」 熱めの茶をすすりながら、神宮寺はちらりと窓の外へと視線を向けた。 そろそろ約束の時間だ。 宗谷が連れてくるのは、いったいどんな人なのだろうか。 性別も、関係も、まったく想像がつかない。 会わせたい人がいる、と彼に言われたのは昨日の夜だった。 洗い物をしている中で言われた一言に、さつきは思わず手に持っていた茶碗とスポンジを落としそうになる。 滑りかけた茶碗を慌てて受け止める彼女の様子に気づいた様子もなく、宗谷は隣で濡れた皿を拭きながら続けた。 「明日行くから」 「え?あ、明日?行くなら美容院とか行っておきたいんだけど…」 「何故?」 「…なぜと言われても」 お互いに何度か「結婚」ということに関してはそれとなく話してきたつもりだ。 いずれはそこに落ち着きたい、ということでお互いに了承した状態で同棲も続けてきた。 そしてこの段階で「会わせたい人」などと言われたら、それはもう彼にとっての親族や保護者しか候補はいない。 一世一代のことが決まってしまう面会なのだ、それはもちろん身の回りのことはできる限り綺麗にした状態で行きたい。 しかしそんなことを彼に説明しても無駄ということもわかっている。 外見というものに頓着がない人だから。 言ってみなければわからない、と小さな希望にかけて説明を試みるも、返ってきた言葉は予想の範囲内だった。 「さつきの中身を紹介したいだけだから」 あまりにも短い言葉すぎて理解されにくいかもしれないが、彼なりに「自分が惚れ込んだ彼女の中身を紹介しに行くのであって、外見など取るに足らないもの」ということらしい。 その言葉は嬉しいのだが、ここはわかってもらいたかった。 しかし時間帯も夜のため、今から翌日の美容院の予約を取ることは不可能に近いだろう。 宗谷の実家は京都のはず。 明日は休日のため、新幹線を使えば一日で往復も十分できる。 全ての洗い物を終え、自分の手を洗いながらさつきは問いかけた。 「わかった。それじゃあ今度私の実家にも行ってくれる?」 わずかに口角を上げて頷いた宗谷の背中に、ゆっくりともたれかかる。 ついに彼との関係がまた一歩動き出すのだ。 すっかり新幹線に乗る気だったさつきにとって、連れてこられた場所は予想外だった。 電車で数駅ほどの、将棋会館。 乗ったばかりの電車からすぐ降りようとした宗谷の腕を掴むも、返ってきたのは「ここで降りる」という短い答え。 そして連れてこられたのは、彼のいる世界の総本山。 どんな場所なのか写真を見たことはあったが、実際に来たのは初めてだ。 さつきの様子を時々振り返りながら歩いていく宗谷に連れられ、足を進める。 会長室というプレートが付けられた部屋の下に来ると、前を歩く宗谷が立ち止まり、静かにドアを叩いた。 コンコンという音が響き、中からは「どうぞ」という男性の声。 なぜ自分がここにいるかよくわかっていない状態のまま、彼女は一歩を踏み出した。 「結婚…?」 宗谷が連れてきた人物が女性だったということに、神宮寺はまず驚いた。 彼と同じほどの年代で、将棋会館の関係者でもない、一般人らしい女性。 そしてその次に、「結婚」という単語が出てきたことに顎が外れるかというほどに驚いた。 まさかこの男に、ついにそんな人生の転機が訪れようとは。 宗谷の今後については40を過ぎたらさすがに見合いでもさせようか、いや将棋に熱中させておいた方がいいのか、と神宮寺の中で悩んでいたことではあった。 しかしまさか、本人がちゃっかり一生を添い遂げたい女性と出会っているとは思っていなかった。 そんな様子は微塵も見せたことがなかった。 「え、じゃあ、お前この一年東京で暮らしてたっていうのはもしかして…この方と同棲を…?」 「…はい、宗谷さんと同棲しています」 「はあ、そうですか…はい…」 事態をいまいち飲み込めていない二人組によって会話は進められていく。 そして唯一この事態を把握している宗谷は、目をつぶったまま耳を傾けているだけ。 「いえ、結婚には賛成と言いましょうか、両手をあげて祝いたいと思うんですが…すみませんね、年のせいか何が起こってるんだかさっぱり」 「結婚認めていただきありがとうございます。…私もよくわかってないので大丈夫です」 「…今度はさつきの実家に行かないと」 「お前、今の状態のまま行くなら結婚認めてもらえないぞ!?」 「…何故」 きょとんとした表情のまま問いかけてくる宗谷に、神宮寺とさつきのため息が重なった。 一歩踏み出すには、まだまだ時間が掛かりそうだ。 END 2013/05/06 (1周年企画)ちか様へ ←短編一覧 |