「あの、すみません!将棋詳しいんですか?」 「え?ああ、まあ…」 「突然で申し訳ないんですけど、将棋教えてください!」 初めて彼女に会ったのはこの公園で、突然話しかけてくる姿に驚いたものだった。 話を聞いてみれば、将棋会館から出てくる島田の姿を見かけて、突発的に話しかけたのだそうだ。 ここは将棋会館からほど近い公園のため、話しかけやすかったのかもしれない。 対局の間の昼休みや、何も予定がない日に憩う場所。 子ども用に置かれた遊具もあるのだが、平日の昼間ということもあり、いるのは大人ばかり。 主婦や定年退職後と思わしき人物が多い中、30代半ばの島田の姿が目立ちやすかったというのもあるのか。 何故彼女がここまで熱心に将棋を習おうとしているのか、最初はまったくわからなかった。 しかし将棋の普及は彼にとって嬉しいことでもあり、断る理由も特にない。 対局のある日は勘弁してもらうとして、それ以外の日なら大歓迎である。 「事前に日程を決めてからなら大歓迎ですよ。ところでお名前は」 「失礼しました!矢川さつきと言います、よろしくお願いします」 「俺は島田開です、よろしく」 約束の意味で交わした手の温かさをまだ忘れられないなんて言ったら、馬鹿にされるのだろうか。 彼女の年齢は二十代の半ばで、学生の間留学していたために就職が遅くなってしまったらしい。 今年から働き始めたという彼女の会社は将棋会館のすぐ近くで、彼女が昼休みの度にこの公園で待ち合わせをした。 何度か将棋を教えているうちに、どんどんと彼女は将棋にのめりこんでいった。 その様子を見ているのが、たまらなく好きだった。 最初はそれぞれの駒の動き方をぎこちなく復唱していた彼女が、詰将棋を解いていく姿。 たまに交じる会社の愚痴や、日常の話。 気が付いたら、恋に落ちていた。 彼女が隣にいることに、安堵感を覚えていた。 島田がプロ棋士だと知った時のうろたえた彼女の顔ですらも愛おしいと思ってしまうくらいに。 「詰将棋をね、作りたいんですよ」 「解くんじゃなくて作るのか?」 「はい。解くより作るのが難しいのはわかってるんですけど、作りたいんです」 「それは…理由を訊いてもいいのか?」 「うーん、島田さんにもまだ内緒です」 そう言って小さく笑ったさつきの横顔が少し赤くなっている。 出会ったころは優しかった春の日差しが、徐々に夏の日差しに変わってきていた。 彼女はまだまだ強くなる。 今はまだ解くのが精いっぱいの詰将棋でも、いつかはきっと。 彼女の昼休みの時間は1時間ほどで、その間はずっと一緒にお昼を食べながら将棋を打っていた。 携帯用のプラスチックの板と駒を使い、今日も軽く対局をする。 もちろん高い実力があるというわけではないが、この腕前なら「趣味は将棋です」と言っても問題ないだろう。 強くなったなあ、と彼女との対局が終わった後に感慨深そうに島田が漏らせば、さつきは嬉しそうに何かを差し出した。 「ありがとうございます。あと、これも出来てるかどうか見てくれませんか?」 「詰将棋か、ついに作ったんだな」 「はい」 彼女から受け取った紙には、五手詰めの問題が描かれていた。 プロ棋士である島田にとってみれば、一瞬で分かる問題である。 しかし彼女はこの問題一つ作るのにどれほどの時間を掛けたのだろう。 毎日毎日、時間があれば悩み、修正を繰り返したに違いない。 そんな彼女の成果が実ってか、さつきの問題は綺麗な解き方で終わっていた。 単純すぎもせず、複雑すぎもせず、彼女の全力を掛けた問題がそこにはあった。 「うん、綺麗にできてるよ」 「本当ですか!よかった…これでやっと渡せます」 「誰かに渡す予定なのか?」 「はい。前に島田さんから詰将棋を作る理由を訊かれた時は答えられなかったんですけど、今なら答えられます」 心の底から安心したような顔をしたさつきの手に紙を返す時、島田の心がざわめいた。 なぜこんなに不安に駆られるのかはわからない。 この紙を彼女に渡したくないと強く思った。 しかしそんなことができるはずもなく、あっさりと手は離れていってしまう。 島田から大事そうに紙を受け取った彼女は、その紙を丁寧にしまいながら言った。 視線はその紙に向けられたままだ。 「片想いをしている人に、あげたいんです」 彼女の片想いの相手は、棋士会館に出入りしている人間だという。 誰なのかということは訊きたくもなかったし、訊く勇気もなかった。 その人間と会話をしている中で、彼が言ったのだという。 詰将棋を作れるくらいの女性がいたら、そんな人と食事に行きたいと。 さつきも含めた複数の人間を含めた中での会話だったのだが、彼女はその言葉を聞いて今すぐにでも将棋を学ばなければと思ったらしい。 そしてその日の昼休み、将棋会館から出てきた島田に衝動的に声を掛けてしまったのだ。 「早速明日にでもこの詰将棋、渡してきます!またメールしますね」 「ああ、それじゃあ」 勢いよくベンチから立ち上がったさつきは、こちらに大きく頭を下げて去っていった。 ちらりと時計を確認してみれば、もう昼休みが終わる時間だった。 ずいぶんあっさりと終わってしまったものだと思う。 さきほどの彼女の去り方くらい、あっさりとした結末だった。 吹く風は、すっかり秋のものとなっていた。 彼女と出会ってもう半年。 まだ半年、とはいえなかった。 「まだ」と言えるほど、密度の薄い半年ではなかったからだ。 むしろ彼女の存在が大きくなるにつれ、密度の濃くなる半年だった。 彼女が将棋を楽しむ姿の裏には、一人の男の存在があったのだ。 その男のために、彼女はあんなに一生懸命だったのか。 その男がいなければ、彼女は自分に話しかけることもせず、自分も彼女と出会わなくて済んだのか。 「…ハハ、俺かっこ悪いな」 彼女に責任を押し付けようとした自分にゾッとする。 勝手に好きになって、勝手に失恋したのは一人だけ。 彼女は何も思っちゃいない。 またメールがやってきて、「次はいつにしますか?」と明るい誘いがあるのだ。 大きく息を吐いたところで、彼女に何も伝わりはしない。 この思いをどこに吐き出せばいいのだろう。 秋の日差しが、彼の横顔に暗い影を作った。 END 2013/04/27 タイトルはお題bot様から (1周年企画)椎名様へ ←短編一覧 |