高校を卒業する春がやってきた。 奨励会をやめ、勉学に励んできた日々。 その努力が実ったのか、四月からは志望していた大学に進むことができる。 一人暮らしを始めるために荷造りをしていれば、階下から自分の名前を呼ぶ声がした。 下りて行ってみれば、そこにいたのは二人の人物。 片手をあげてこちらに手を振っているのは、さつきの祖父である。 そしてその隣でこちらを黙って見つめているのは、幼いころからずっと片想いをしていた人。 「おーい、さつき!来たぞー」 「おじいちゃん、いらっしゃい。冬司さんも」 何年経っても、宗谷冬司という人は変わることがなかった。 容姿も、雰囲気も、何もかも。 さつきの物心がついたときには、すでにこの人は目の前にいるこの状態で彼女の前に佇んでいた。 日本将棋連盟の会長である祖父が、度々さつきの前に連れてきた人。 祖父が彼を強引にでも引っ張り出さなければ、将棋のことだけを考えて自分の世界に入っている人。 その人の視界にちらりとでも映れたらと思い、将棋を始めた。 もちろん祖父の影響もあっただろう。 しかしそれ以上に、「強くなりたい」という気持ちは宗谷冬司という存在があったからこそだ。 さつきの卒業と進学を祝い、親戚や知り合いを含めた宴会が行われた。 元々にぎやかな場所が好きではなく、人付き合いもあまり得意ではないさつきにとっては苦痛の場である。 しかし自分のために行われているのだとわかっているため、抜け出すわけにもいかない。 どうしたものかと手に持ったコップを握り締めていれば、ふいに肩を叩かれた。 振り返れば、宗谷がこちらに背を向けて静かに部屋を出ていくところだった。 おそらく、肩をたたいてくれたのは彼であろう。 付いていきたい、しかしいいのだろうか。 さつきの気持ちを知る由もなく、周りで飲めや歌えの宴会を行う大人たちの中で固まってしまう。 最後には宗谷の服の裾がわずかに開いていたドアの隙間から消え、その部分を見つめたまま動くことができない。 次の瞬間、再び肩をたたかれた。 皺の多く刻まれた年長者の手。 「さつき、行ってやれ。アイツ待ってるから」 「…おじいちゃん」 「なーに、ここにいる奴は全員出来上がってるし、もう主役がいなくなっても大丈夫だ。ほら」 先ほどまでビール片手に大騒ぎをしているだけだと思っていた祖父から送られた、欲しかった答え。 正座していた格好から立ち上がれば、片足がしびれてうまく歩くのは難しかった。 それでも一歩ずつ進んでいくのだ。 彼が待っているのであろう、あの部屋へ。 何も言葉はなかった。 祖父と将棋を打つたびに使う和室。 さつきの自宅の中でもひときわ涼しさと静けさを誇るその場所に、彼は将棋盤を前にして静かに座っていた。 彼がこの家にやってくるたびに、将棋を打っていたのもここだった。 その時からそうだった。 二人の間に、交わされる言葉はない。 「…強くなった」 宗谷がさつきに向けて掛けた初めての言葉だった。 ハッとしたように顔を上げる彼女に、宗谷の視線が向くことはない。 その目はまだ終局したばかりの盤面に注がれていた。 小さい頃、会長である神宮寺に連れられてやってきたこの家。 初めて出会った、自分より一回り以上年下の幼い子供。 その子供がこんなにしっかりとした将棋を打つようになったのだ。 どこまでも成長を感じさせる、宗谷にとって初めての見守る相手。 この目の前の少女は、これから自分の知らないところへ行くのだろうか。 この家を出て、新たな場所へ。 「さつき」 「…はい」 「これからも、見守らせてほしい」 彼女の目が、こちらを熱く見ているのは知っていたから。 将棋と共にいつまでも一緒に見ていられるのは君だけだから。 END 2013/04/08 (1周年企画)しろ様へ ←短編一覧 |