彼の職業のことは知っている。

簡単に言ってしまえば、将棋を指すということだ。

しかしどういった内容のものなのかはわからない。

駒はどうやって動かすのか、どういった作戦があるのか。

詳しいことは何も知らず、次の対局に備えて頭を悩ませている彼の隣に黙っていることしかできない。

本当にこのままでいいのだろうか。

そこまで考えて、一つの決意をした。

彼には内緒で、やらなければならないことがある。





数ヶ月経った後、彼に対局を申し込んだ。

きっと驚いてくれるはず。

しかしさつきの予想とは裏腹に、島田はくすくすと笑いながら将棋盤を取り出した。

まるでそのことを知っていたかのようだ。



「…もしかしてバレてた?」
「ああ、まあな」
「えー!?」



さつきがこの数ヶ月の間、将棋の勉強をしていたことは知っていた。

どこかへ出かけないかと誘われる頻度が少なくなり、こちらが誘ってみてもなかなか良い返事がこない。

理由は「勉強したいことがあるから」。

何かの資格を取るのだろうかと何も言えずにいながらも、心のどこかではもっとさつきと共にいたいと思っていた。

もしかして嫌われたのだろうか、と半ばヤケになっていたこともあった。

しかし弟弟子の二海堂がぽろりと零した言葉により、彼女が将棋の勉強をしていたことを知った。

たしかあのときは、会長と二海堂と島田の三人で将棋の普及について話していた時だった。



「もっとこう若者にも将棋を広めないといかんな、ジジババだけじゃなくて」
「それなら大丈夫ですよ、矢川さんのような若い女性も最近は将棋の勉強をしているようですし……あ」
「さつきが?」



彼女が将棋を指す手はまだまだおぼつかない。

しかし彼女なりに頭の中で将棋のことを考えてくれているのだろう。

それなのに、彼女のことを疑うようなことをしていた自分が申し訳ない。

思わず眉間にしわを寄せた島田に、さつきは遠慮がちに口を開いた。

実力差は歴然としている。

プロ棋士である彼にとって、こんな茶番に付き合わせられるのはたまったものではないだろうか。



「…あの、ごめんね」
「うん?いきなりどうした?」
「こんな初めて数ヶ月の初心者と一緒に打ってても楽しくない、よね」



彼のことを知ろうとした自分の考えを否定しようとは思わない。

しかし本人の目の前で、こうして披露するのは間違いだったのではないだろうか。

自分が考えに考えて指した駒も、彼にとっては初心者の一手。

勝とうとはまったく思っていなかったが、島田の気分を害そうとも思っていなかった。

同じ時間を楽しく共有できればと、ただそう思っていただけだ。

思わぬ勘違いをしている様子のさつきの表情がどんどんと曇っていくのを見て、島田は将棋盤に伸ばそうとしていた手をそのまま彼女の頭の上へと持っていく。



「楽しいよ、さつきと将棋が打てて。だからそんな顔するなよ、な?」
「本当に?」
「ああ。将棋のこと、興味持ってくれてありがとうな」



一定のリズムで彼女の頭を撫でながら、島田の口元は柔らかく緩む。

自分にとっては人生といっても過言ではない将棋にさつきが興味を持ってくれたこと。

それが何よりも嬉しかった。



END
2013/04/03

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