今になってわからなくなった。 この人の隣にずっといて、安心した日々を送るのか。 それとも、小さなころから憧れていたことをここで実現させるべきか。 学生の頃は大きな夢を見たものだった。 しかし年齢を重ねるにつれ将来安泰の道を選ぶことに比重を置くようになり、あの頃の夢は失われつつあった。 それなりの企業に入って、貯金も少しずつできていって、友人の紹介で知り合った同い年の男性は落ち着いていて包容力があり、穏やかに笑う人。 周りから見れば幸せそのものな人生のはずなのに、どうしてこのタイミングで昔の夢が思い出されるのだろう。 あの時の選択が間違っていたのではないかと不安になってしまうのだろう。 「どうした?」 「…開」 「わかってるさ、なんとなくだけど」 隣で棋譜を眺めて新たな戦法を考える島田の横で、いつの間にか悩みの渦に陥っていたらしい。 気づけば隣にいたはずの島田がマグカップを持って台所からやってくるところだった。 音もなく置かれたマグカップを見つめていると、そのマグカップから出ている湯気が自分の心境と重なった。 少しずつ出てきて、いつの間にか消えてしまう。 次から次へと出てくるために一つの流れはできているものの、最後には見えなくなってしまうもの。 自分の頭の中も、見えないもので占領されている。 自分と島田が結婚間近であろうことも、よくわかっている。 お互いにもう三十代が近くなり、五年以上は付き合った仲。 結婚願望もないわけではなく、時期としてももうすぐなのだ。 婚期も、夢を追いかけることが可能な期間も、もうそろそろ。 「やりたいことがあったの。学生の頃から憧れてて、その選択ができるときに尻込みしちゃって結局できなかったことなんだけど」 閑静な住宅街の夜は驚くほど音がなく、部屋にもさつきの声以外は響かない。 隣で体育座りをしたまま話すさつきの頭を撫でながら、島田は何も言わない。 言ってはいけない気がした。 「自分のリスクが少なくなるようにと思って選んだ道でこんなに幸せなのに、今になってやりたいことをやらなかったことが頭に引っかかってるの。……自分でも呆れる」 幸せな未来が欲しい、自分のやりたいこともしたい。 二つを願う自分に気づき、どうしていいのかわからなくなる。 不意に出てきた涙がさつきの視界を滲ませているのを見ると、島田は撫でる手を止めて彼女の肩を抱き寄せた。 彼女の気持ちが揺れ動いているのは、痛いほどわかる。 一つは島田にとってもさつきにとっても幸せな道、そしてもう一つはとても幸せとはいえない道。 むしろ、今ここにある幸せを壊す道といってもいいのだろう。 それでも彼女がその気持ちに気づいてしまったからには、幸せな道を選んだにせよ後悔の念が付きまとうのだ。 隣にいてくれるさつきに一生ちらつく後悔。 そんなこと、させてしまっていいのだろうか。 「じゃあ、こうしよう。一年待つ」 「…え?」 「一年待つよ、さつきのこと。一年経っても帰ってこなかったら、お互いに別の道を進もう。別のパートナーを探そう」 女のために待つ男なんて笑われるかもしれないが、彼女に後悔などさせたくない。 一年という期限を設けたのは、自分のためでもあり彼女のためでもある。 ずっと待ってると言ってしまえば、きっと彼女は島田に遠慮してやりたいことが思い切りできないだろう。 彼を待たせているのだから早めに区切りをつけなければ、と。 しかし一年という期間があるのなら、その期間を過ぎれば彼は別のパートナーを探しに行くのだ。 自分のわがままに付き合わせて一人の男の人生を棒に振らせた、という罪悪感もなくなる。 「…私、精一杯やってくるから。ごめん」 「謝るな。もう俺が振られたみたいだろ?」 一年なんて短い期間で、さつきへの思いが消えることはないだろう。 むしろ思いは募り、一生思い続けていくのだろう。 それでも島田は、一年で気持ちに区切りをつけると口に出さなければいけない。 彼女の前でだけは、強がって。 END 2013/03/29 (1周年企画)光様へ ←短編一覧 |