今日こそ言おう、と言い続けて早何日経ったのか。 いや、何日なんてものではないのかもしれない。 何か月という単位に切り替わっている可能性をまったくもって否定できない。 周りからの支援は厚い。 太鼓判もバッチリだ。 しかし、いざ踏み切るとなれば話は違う。 「…はあ」 「島田さん、その分だと今日もまた…」 「…言うな、それ以上言わないでくれ、スミス」 帰っていく彼女の後ろ姿を見つめるだけで、また今日も終わった。 手を振るスピードがどんどんと遅くなり、しまいにはうなだれた島田に一人の男が近づく。 遠ざかっていくさつきの影を見遣り、遠慮がちに声を掛けるも、返ってきたのは悲しみに満ちた言葉。 それ以上追及するわけにもいかず、スミスは唇を結んでさつきが消えた方向を見た。 棋士会館に事務員として勤めるさつきと、プロ棋士である島田が相思相愛であることは周知の事実。 あとはお互いに一歩踏み出せば良い結果になることは誰もがわかっている。 しかしその一歩がどれほど勇気の必要なものかわかっているため、周りもそこまで強くは言えないのだ。 「俺だってもう若くないのに、未だにこんなことで足踏みしてるのは情けないよなあ」 「島田さん…」 「兄者!」 棋士会館の正面出入り口を押し開けながら言う島田の後ろにつきながら、言葉が見つからない。 沈黙が始まるかと思われた一瞬の後、待ち構えていたかのように少年が駆け寄ってきた。 ぐるぐると巻かれたマフラーに、ふっくらとした頬は少し赤くなっている。 その少年が弟弟子の二海堂だと気づいた島田は、驚いたようにそちらを見た後、怒ったような表情になった。 もともと病弱な弟弟子なのだ。 こんなに冷えた夜に外にいるのは、感心できることではない。 「坊、お前こんな冷えてるのに外になんて…」 「そのことについては今は気にしないでください!それより兄者、これを」 「ん?なんだこれ」 珍しく島田の言葉を遮った二海堂に対して面食らうと同時に、あるものが手渡された。 宛名も何も書かれていない、真っ白な封筒。 厚さもほとんど感じられないものを手渡され、その封筒と二海堂の顔を島田は戸惑ったように見比べる。 この弟弟子の少しばかり浮世離れした言動や行動には慣れていたつもりだったが、さっぱり意味が分からない。 しまいには沈黙してしまった島田を見かねたのか、二海堂は声を張る。 「矢川さんのところにそれを届けてください、兄者!勝手ながら明日、そこのチケットの遊園地を貸切にしておきました!」 「貸切…って、はあ!?どういうことだ、坊!」 「まあまあいいじゃないですか島田さん、しばらくは対局もないですしさつきさんも明日はお休みらしいッスよ」 「スミス、お前何言って」 「今、桐山に矢川さんを引きとめてもらってますから。兄者、走ってください!」 後輩たちにここまでしてもらい、情けないと言えばいいのか、それとも感謝の気持ちを示せばいいのか。 心の中での葛藤はあるものの、二海堂の最後の言葉に背中を押された。 とにかく今は、走るしかない。 封筒を握り締めて、棋士会館出入り口のタイルの床を蹴り出す。 桐山が引きとめてくれているというから、そこまで遠くに入っていないはずだ。 街灯の光だけが道路をにぶく照らし、夜の道は驚くほどに車通りも少ない。 時々聞こえてくる車のエンジン音やクラクションは、もう一本向こうの通りのものだろうか。 数分走り、徐々に体力がなくなってくるのを感じ始めたのと同時に、道路の向こうに二つの人影が見えた。 あちらもこちらの影に気づいたのか、一つはすぐにいなくなってしまう。 そしてもう一つは、慌てた様子でこちらに近づいてきた。 近くで見た彼女の顔は、驚きの表情が見て取れた。 「島田さん、どうしたんですか!?そんなに走って…」 「いや、ちょ、ちょっと待ってくれ、この年になると全力疾走はキツイ…」 必死に握っていた封筒は、掴んだ部分がくしゃくしゃになっていた。 呼吸を整えながら封を切れば、そこにはチケットが二枚。 一枚取り出せば、やはり少しよれた部分が目立つ。 しかしその状態のままで、さつきへと差し出した。 かっこよさなんて元々求めちゃいない、この差し出す勇気が欲しかっただけだ。 「明日一日、付き合ってくれないか?言いたいことがあるんだ」 細かいことは考えずに、君に一つ伝えたいことがある。 END 2013/03/14 (1周年企画)ちはる様へ ←短編一覧 |