一日の始まりは、「おはよう」と挨拶を交わすことからだ。 家族や友達、すれ違った近所の人。 色々な人と交わすけれど、一人だけ他の人とは違った意味を持つ人がいる。 「おはよう、相変わらず早いな」 「おはよう」 朝も昼も夜も冷静な表情をしている彼は、マフラーを外しながら声を掛けてきた。 朝7時過ぎの教室には、日吉と紀里の二人きり。 冬至を過ぎてからだんだんと日の出の時間は早まってきたようにも思えるが、朝の空はまだ完全には明るくなっていない。 学校に来るまでに冷えたのか、彼の顔や手は全体的に赤みがかっていた。 これからテニス部の朝練に向かう日吉を見送るのは、毎朝のこと。 頑張ってねと声を掛けて送り出し、他の生徒が来るまでこの教室で一人で過ごす。 自動で暖房が入る設定になっているこの教室の室温は一定に保たれているものの、彼が教室から出ていく瞬間に開けた扉からはずっと冷気が流れ込むような気がした。 もちろん彼はきっちり扉を閉めていってくれているのだが、これは心の問題なのだろうか。 いなくなってさびしい、という勝手で一方的な感情。 「もうすぐ学年末テストだな」 「そうだね。日吉君はもう勉強始めてるの?」 「まあな。テストもそうだがテストが終わったらクラス替えも発表されるし、バタバタしそうだ」 提出物を教壇に出しながら言った日吉の言葉に、コートを椅子に掛けていた紀里の動きが一瞬止まり、それから何事もなかったかのように笑顔を作った。 クラス替え。 学年が変わるごとに行われる一大イベントだ。 そしてそれは、この朝の十分程度の会話に終止符を打つということ。 再び同じクラスになる可能性もないわけではないのだが、クラス数がそれなりにあるため可能性は低い。 隣の席になってから早くも一年経ってしまった。 そしてその間に芽生えてしまったこの感情は、あっさりと摘み取るしかないのだろうか。 やはり終業式に想いを伝えるべきなのだろうか。 しかしもし同じクラスになれたとしたら気まずい雰囲気になってしまい、今までのように朝の教室に来なくなってしまうのではないかという不安がある。 結局は今が一番で、壊したくなくて、この関係に浸ってしまっているだけなのだけれど。 「クラス替えをしたら、里見とこうやって話すこともなくなるかもしれないな」 「…そうだね。違うクラスになっちゃう可能性が高いし、同じクラスになっても隣の席になるのは難しいかも」 「お前はどう思う?今みたいに話せなくなったとしたら」 突然の言葉にうつむいていた顔を上げれば、こちらを真っ直ぐに見つめる日吉と目があった。 座った状態で机の中を整理していたため、傍らに立つ日吉を見上げる形になりながらも言葉が出ない。 彼はいったいどういう意味で言っているのだろうか。 寂しい、と本当の気持ちを言ってしまってもいいのか、混乱した頭の紀里には判断が難しい。 「いや、えっと…」 「じゃあ質問を変えるか。お前は俺と話してて楽しいか?」 「うん、それはもちろん。そうじゃなかったらこんなに早く学校には…あ」 答えやすい質問がきたことで、うっかりと口を滑らせてしまった。 二年生になり、新しいクラスに慣れ始めて一ヶ月ほど経った頃、たまたま早く学校に着てしまったことがあった。 その理由は早起きして暇だったからという単純なもので、朝7時過ぎの教室で一人で本を読んでいた。 そしてその時に日吉が教室に入ってきたのだ。 クラス替え早々の席替えで隣の席になったもののほとんど会話したことがなかった彼。 どうしようかと悩んでいれば、日吉から挨拶をしてくれた。 今まで落ち着き払った表情しか見たことがなかったものの、少しだけ会話をしてみれば趣味が合うことがわかったのだ。 読んでいる小説や好きな映画、日常の話。 意気投合した翌日に紀里が今度は意識して早起きをし学校に来れば、日吉も同じように教室に入ってきてくれた。 この流れが定着してからというもの、家族には「二年になってからあんたずいぶん早起きね」なんてからかわれるようになってしまったほどだ。 「奇遇だな。俺も二年になってから教室にこんなに早く来るようになったんだ」 「え?…あ、そうなんだ」 彼の言葉を聞いていると、自分が少しずつ期待してしまっているのがわかる。 そう悟られないように返事をする紀里の顔はいつもの笑顔が空回りしているようで、日吉は内心で小さく笑う。 こんなにわかりやすい女子もなかなかいない。 そして自分も相当わかりやすかったのだろうと、この教室に来る前に言われたことを思い出す。 「もう少ししたらクラス替えになっちゃうんだから、自分の気持ちは伝えておいた方がいいと思う。朝の部活は少しくらい遅れても俺が何とかしておくから」 朝練が始まる前に荷物を置くために教室に向かおうとする日吉を捕まえて説得したのは鳳だった。 いつも優しく穏やかで、人の話題にそこまで突っ込もうとはしない鳳にここまで言われたのだ。 どこかで感じていた焦りが、見事に顔に出ていたのだろう。 「初めて話した時から里見のことが好きだ。付き合ってくれないか?」 この一言を言うまでに二人で過ごした朝の教室は何日あったのだろう。 顔を真っ赤にして頷いてくれる彼女の顔を見ていると、そんな疑問はどこかに吹き飛んでしまった。 初めて触れた紀里の手は、自分のものに比べると柔らかく、そしてあたたかかった。 END 2013/02/04 (1周年企画)透様へ ←短編一覧 |