手袋をして、マフラーを巻いて、荷物を持って、家を出る。 毎朝することは同じ。 しかし、今日は違う。 いつもよりほんの少し膨らんだスクールバッグをちらりと見遣り、紀里は深呼吸してから玄関を後にした。 本日の日付は2月14日。 俗に言う『バレンタインデー』というイベントが全国各地で知られている日だ。 教室に入ってみると、そこにはまだ渡したい相手はいなかった。 越前リョーマ。 入学してから今まで、ずっと隣の席の彼。 カルピンという名前の猫を飼っていて、帰国子女で、全国大会を制覇したテニス部の一年生エース。 とてもマイペースで配慮なしに物を言う性格で、何度心に刺さる言葉を言われたか。 それでも紀里は彼が好きだった。 一緒に日直当番をしたこと、授業中にこっそり話したこと、全てが思い出すだけで嬉しくなる思い出ばかり。 自分の席に着いて鞄をちょっと開けて、昨日頑張ってラッピングしたチョコレートを覗く。 ベースはピンク色で淡いドットの入った細長い箱に、赤色のリボン。 一目で「本命」とバレそうなこのチョコは、他の人には出来ることなら見られたくない。 チョコを他の人からは見えないように鞄の端にしまい込み、一息ついてから窓の外を見た。 するとテニス部のランニングの掛け声が教室の中までよく聞こえてきた。 ちょうど窓の外を走っていった集団の中に、一人だけ白いキャップを被った少年がいた。 ちらりとこちらに目を向け、紀里と目が合うとキャップのつばに一瞬手をかけてから走り抜けていく。 彼の仕種に紀里も笑顔を浮かべ、後ろ姿を見送る。 お互いに朝早く来た日にする挨拶の代わり。 すっかり小さくなった彼の後ろ姿を見て、紀里は鞄の裾をわずかに握った。 撃沈。 この二文字が今の紀里の雰囲気から醸し出されていた。 鞄の膨らみはそのままの状態で西日に照らし出されている。 自分の机に伏した状態から顔を横に向け、紀里は眩しいオレンジの光に目を細めた。 結局この一日、彼にチョコを渡すことはできなかった。 授業の間のちょっとした休み時間やお昼休みはフラッとどこかに行ってしまい、授業中も視線を合わせようともしてくれなかった。 そんなリョーマに対し、強引にチョコを渡せるほどの積極性はない。 いっそのことこのまま友達関係を続けてしまおうか、という甘い考えも邪魔をした。 深くため息をついてから体を起こし、彼の席を見る。 電気も点けない状態でのひっそりした教室の中で、彼の席だけが夕日の中で一際輝いているように見えた。 手で目に陰をつくるようにしてから、紀里は再び窓の外を見た。 ここからよく見える、テニス部の練習風景。 応援をしている周りの女子がいてハッキリとは見えないものの、オレンジに染まった白いキャップが時折すき間から姿を現した。 家に帰って食べちゃおっと 膨らんだままの鞄をポンッと叩き、紀里は席から立ち上がる。 今日がたまたま機嫌が悪かっただけで、明日からはまたリョーマもいつもの態度に戻ってくれるかもしれない。 明日は話せるといいな… 紀里はリョーマの席を見、それから静かに教室を後にした。 「…ちょっと休憩行ってくるッス」 「あ、おい、越前!?」 竜崎の個人別スパルタ練習の列に並んでいた人影が小さく呟き、ラケットを持ったまま走り出す。 後ろで自分の名前を叫ぶ先輩の声も聞こえたが、振り返らずにコートを出て行ってしまう。 「青春だねえ」 ニヤニヤと楽しげに笑い、竜崎は再びラケットを構えた。 「越前のことは放っておきな、次行くよ!」 上履きから下働きに履きかえて玄関から出ると、遠くから野球部らしき練習の声が聞こえてきた。 そして近くからは吹奏楽部のチューニング中の音。 その中をかい潜り、紀里の耳にはしっかりとテニスボールを打つ音も入ってきた。 そしてその音を聞くとつい、後悔が胸を過ぎる。 思いを断ち切るように早足に歩き出して、校門へ向かう。 今日は自分への慰めに何かお菓子でも買って帰ろう ちょうど校門を通り過ぎようとすると、それを遮るかのように顔の前にラケットが突き出された。 突如現れた編み目に反射的に目を閉じると、横から聞き慣れた声がした。 「アンタ、もう帰んの?」 「うわ!……って、リョーマ君!?」 今は部活中のはずじゃ…? リョーマの顔と、小さく見えているテニスコートを振り返りながら見比べる紀里をただ見つめるだけのリョーマ。 最終的に困惑の顔を向けてきた紀里に対し、リョーマはずいっと自分の右手を手の平を上にして差し出した。 ラケットを持った左手で帽子を深く被り直し、小さくつぶやく。 夕日に照らし出された顔からは表情が読み取れない。 「俺に渡すもの、あるんじゃないの?」 「え……」 「アンタ、バレバレ。そんなに変に鞄膨らんでたら誰だって気付くっつーの」 ちらっと紀里の肩にかかる鞄に視線を向け、リョーマはさらに手を突き出す。 何を要求しているかはとりあえず理解した紀里は、働いていない頭のままでおずおずとチョコを取り出す。 ピンク色のはずの箱は、オレンジに染まっていた。 そっと乗せるように手の平に置くと、リョーマはそれを強く掴んだ。 そして言葉を待つこともなく、リョーマは紀里の横を通り過ぎる。 小さく呟かれた言葉は、紀里の脈を速まらせた。 「……俺もアンタのこと、嫌いじゃないから。ホワイトデー覚悟しといてよね」 END 2012/02/09 ←短編一覧 |