『東京は大阪に比べて人情が薄いから、落とし物したらアカンよ』 全国大会のために東京へ向かう朝、玄関先でオカンが言った言葉。 落とし物したら二度と返って来へんみたいな言い方して、なんやねん。 そう思ったけど、特に反論はせずに「おう」とだけ返して東京にやって来た。 そしてそのオカンの言葉が嘘だったということは、東京滞在二日目にしてわかった。 「あ、これ落としましたよ」 「ん?おお、ありがとう!」 早朝に、ホテルから出て一人でランニングをしている時。 突然ポケットにあったはずの重みが消えて、チャリンと軽やかな音がした。 ああ落ちたな、と少し走る速度を落として振り返れば、そこには俺のホテルのキーを拾ってくれている女の子の姿。 まさか拾ってくれる人がいるとは思わずに慌てて駆け寄れば、立ち上がってそっと渡してくれた。 うわ、めっちゃ綺麗な手… 一瞬視線がそちらにいったものの、フルフルと心の中でその気持ちを追い払って、改めてその子の顔を見る。 メイクのしていない綺麗な肌に、こちらを見る真っすぐな瞳。 ここでオカンのもう一つの忠告を思い出す。 「大阪に負けず劣らず東京にもナンパしてくる女の子多いやろうから気いつけなさい。すっぴんわからんくらいにメイクする子なんか要注意よ」 この子、全然当て嵌まらへん。 髪だって真っ黒やし、格好もスウェットにパーカーでめっちゃカジュアル。 まあ早朝やし、たとえこの子が昼間にこの格好してても、特に誰も言わへんやろな。 そんな格好でも人を引き付ける素質というか、そんなんがある感じや。 ………ていうか俺、ガン見しすぎやん。 ああカッコ悪、と思うと同時に謝ろうとすると、周りをちらちらと見ていた彼女が不意に口を開いた。 「あのちょっと聞いてもいいですか?」 「おん、なんでも聞いてくれてかまへんよ。…といってもここら辺の地理に関してはサッパリなんやけど」 「えっと最近この辺に知らない男の子が出歩いてることが多いんですけど、何かあるんですか?ちょうど私やあなたくらいの男の子が多くて」 「ああ、それなら多分中学生の男子テニス全国大会出場者と違うかな?来週からなんやけど、始まる前に来てるところが多いんちゃう?」 彼女の名前は里見紀里と言った。 ちょうど俺らが泊まってるホテルの近くに家があるらしくて、この日の朝から俺と紀里ちゃんはよく会うようになった。 待ち合わせをしているわけでもないのに、いつも同じ木の下で会う。 ついに明日の青学と立海の決勝が終わると、大阪に帰らなければならない時がきた。 この二週間、毎日紀里ちゃんと話していて本当に楽しかった。 同じ中三同士、夏休みの宿題の進み具合だとか、今日あった試合のことだとか、たわいのない話ばかりだったけどこんなに女の子とリラックスして話したのは初めてだった。 その生活が明日で終わる。 紀里ちゃんに…会えなくなる。 「おい白石!何ボーッとしてんねん、決勝見てる時も変な方向見てブツブツ言って…どしたん?」 「謙也さんはわかってないッスね、部長のことやからどうせあの女子のこと考えてると違います?」 「女子?ああ、あの子か。明日で大阪帰るっちゅーのにヘタレやな、白石」 「…謙也さんに言われたくないッスわ」 ホテルでの最後の夕飯が終わった後に、俺の部屋に勝手に上がり込んだ謙也と財前が何か言っていたが、あまり耳には入ってない。 大阪に帰ったらもうそこで紀里ちゃんとさよなら、なんて関係にはしたくない。 それで俺がいなくなった後に他の男と紀里ちゃんが付き合うなんて考えたら、なんかこう…心ん中にぽっかりと穴が開いた感じと、どうしようもない嫉妬の炎が込み上げてきた。 だからと言って俺の気持ちを押し付けたらアカンし、紀里ちゃんの気持ちも聞かなアカン。 そういえば紀里ちゃんとの出会いのときは、たしか… 「………これや!」 「うわっ、いきなり大声出すなや白石!」 「謙也さんも十分うるさいッスわ」 「謙也、財前、しばらく留守番頼むわ!」 「はあっ?ちょ、おい!」 まだ店は開いてるやろか、いや大丈夫やな…― 「紀里ちゃん!」 「あ、蔵ノ介君、おはよう。今日で大阪に行くんだよね」 なんだか寂しいや、と目を細めて弱く笑う紀里ちゃんの目の前にある物を落とす。 早朝の澄み切った空気には、あの時と同じようにチャリンという音が響き渡った。 紀里ちゃんは不思議そうな顔をして俺を見て、それから何かに気付いたように笑った。 本当によく笑う子や。 「蔵ノ介君、この指輪落としたよ」 「おん、ありがとう。でもそれ、持っててほしいんや」 “それ、俺の落とし物やから次会うときまで持ってて” そう続けると、紀里ちゃんは驚いた顔をした後に、しゃがみ込んで指輪を渡そうとした体勢のままでクスクスと笑う。 そして立ち上がってこう言った。 「待ってるよ、蔵ノ介君」 「おん」 必ず迎えに行くから。 その時まで待っててくれな? END 2011/11/27 ←短編一覧 |