ウイスパーボイスのダイアリー【2】-B


ハリーが階段から突き落とされた事件を境に、ヴォルデモートはハリーと距離を置くことにした。

「ヴォル…どうしても、駄目?」
「駄目だ」

彼はどこまでも強情だった。

「一連の事件のほとぼりが冷めるまでは、お前の近くにいることは出来ない」
「…たまにでいいから、戻ってきて」
「……善処する」

しかし、それからしばらくの間、蛇が姿を現すことは無かった。


+


(ヴォル、なかなか戻ってきてくれないなあ…)

ハリーは眠気と戦いながら、魔法史の授業を受けていた。内容自体はまあまあ面白いはずなのだが、ピンズ先生の単調な声は、生徒達を眠りに誘うのに十分な破壊力を持っていた。ハリーはうとうとしながら羽ペンを動かすが、眠気のせいでなかなか文字にすることができない。その時だった。ノートに黒い文字が浮かび上がった。

"いい加減にしてくれる?"

ハリーは一気に覚醒した。うとうとしていたせいか、羊皮紙の束と間違えてリドルの日記を机に出してしまったらしい。つまり、ハリーはずっとリドルの日記にふにゃふにゃした文字にならない文字を書いてしまっていたのだ。―これはちょっと恥ずかしい。

"僕は落書き帳じゃないんだけど"
"ごめん、リドル"

周りの生徒達はほとんど眠りに落ちている。ハリーが突然ノートをとり始めても、誰も気付くことはないだろう。

"まあ、いいけど。それほど退屈な授業なんだろうね"

そういうものの、綺麗な文字はどこか不機嫌そうだ。ハリーが凝視する中、日記帳に次の文字が浮かび上がる。

"―それで、何が寂しいって?"
"寂しい?"
"君、さっきここに「寂しい」って書いてたよ。覚えてない?"

ハリーの手が止まった。そういえばさっき、ヴォルの夢を見ていたような気がする。きっとその時だ。無意識のうちに、そう書いてしまったのだろう。すぐに無機質な文字が浮かぶ。

"あの蛇のこと?"
"教えない"
"ふうん"

少し迷ったが、ハリーは思い切って文字を書いた。

"僕には本当の家族がいない。でも、"
"―ヴォルは、そんな僕の側についててくれた。だからいなくなってしまうと、急に心に穴が空いたような感じがする"

「―あいつがいてもいなくても、君の孤独は変わらないよ」

返事がすぐ隣から聞こえて、ハリーは飛び上がりそうになった。リドルが半透明の姿を現し、ハリーの隣の空席にごく自然に座っていた。彼は頬杖をつき、淡々と授業を進める老教師を眺めている。半透明ということを除けば、彼は普通の生徒に見えた。

「っ!ちょっと・・・リドル!授業中だよ!」
「誰も気付きやしないさ。僕は君以外に見えないしね」
「でも・・・」

囁きながら、ハリーは横ですやすや眠るロンをちらりと見た。しばらくは起きそうにないが、万が一の場合もある。

「それに、あと数十秒で授業は終わる」

リドルはにっこりしてハリーの方を向くと、、ごく自然に手首を掴んだ(実際には掴んでいないのだが)。

「リドル・・・?」
「ね、ハリー。デートしよっか」

+

「(デート、って・・・)」

ー何だかものすごく胡散臭い。

それでも一般的な女の子なら、リドルのようなハンサムで頭の良い人にそう言われたら喜ぶのだろうか。その辺りの感覚が、ハリーにはよく分からなかった。

リドルはそんなハリーの気も知らず、手を引いて廊下をぐんぐん突き進んでいった。彼の動きには迷いが無い。かつてホグワーツの生徒だったというのは間違いないようだ。細い抜け道がどこに続いているか、階段がいつ切り替わるのか、彼は全て完璧に把握していた。

「ねぇ、どこに行くの?」
「着いてからのお楽しみだよ」

やがて二人は小さな扉の前にたどり着いた。人ひとりがやっと通れるくらいの狭さだ。リドルはにっこりして振り向いた。

「開けて、ハリー」

ハリーが扉をそっと押すと、それは案外簡単に開いた。中には上へ続く階段になっている。

「もうすぐだよ。・・・行こうか」

耳元で囁き、ハリーの指に触れるリドルはまた完璧に微笑んでみせた。―何かがおかしい。それはハリーが彼と出会ってからずっと感じていることだったが・・・一番不思議なのは、この状況を、不可思議な彼の存在を、自分が受け入れつつあるということだった。

「(彼は、どうして・・・)」

「ハリー、どうかした?」
「ううん、なんでもない」

ハリーはリドルに続いて、薄暗い階段を上った。冷たい石の段差を這うようにして進む。と、突然視界が開けた。―焼けた夕陽が、目に突き刺さる。

「・・・!ここ、は、」
「昔、ある天文学の教師が作ったんだよ。自分だけの展望台をね」


階段を出た先は小さなバルコニーになっていた。どうやら、城の塔のほぼ頂上のようだ。ホグワーツの広大な敷地と、その先に広がる地平線―全てを眺めることができる。美しい景色だった。だが美しすぎて、それは少し不自然なように感じられた。

「どうして君がその場所を知ってるの?」
「僕は優秀な生徒だったからね。先生方は可愛いがってくれたのさ」

可愛いがる、という言葉を発した彼の声には明らかに馬鹿にした響きがあった。リドルは唇を引き結んだハリーに近づき、後ろから耳元に唇を寄せた。

「ねえ・・・僕は、さ。こうして見ていると」

彼の声はやけに高揚していた。直接顔を見ずとも、彼のモノクロの目が爛々と輝いていることはハリーには容易に想像できた。

「ここから見える景色を・・・いや。その先にある、全てを手に入れることが出来ると思えるんだ」

―君にも分かるだろう?

言葉にはしなかったが、リドルはそう言っているような気がした。ハリーは目の前に広がる景色を見据えたまま、夕陽に向かって、一歩前に踏み出した。そして、何のためらいもなく手すりを乗り越え、天に向かって突き出している望遠鏡のオブジェに足をかけた。リドルは少し驚いたようだったが、愉快そうに笑った。

「あははっ!さすが、天才シーカー様はやることが違うね」
「―リドル、もういいよ」

不安定な足場の上を、綱渡りをするかのように慎重に、一歩一歩足を踏み出す。ハリーは望遠鏡の先端まで来ると、リドルの方に振り返った。足を少しでもずらしたら、奈落の底へと真っ逆さまだろう。だが、なぜかこのときのハリーには、そうならないという妙な自信があった。昼間とは違う少し冷えた風が、二人の髪を揺らした。リドルはまだ微笑んでいた。

「ん、何?」
「だから、そうやって笑うの。もういいよ」

ハリーはゆっくりと両腕を広げた。スカートが揺れる。少しでもバランスを崩せば、このまま、彼以外の、誰にも気付かれることなく―

「一体どうしたのさ。変なハリー」
「僕、分かってるよ」

視線が交わる。

「リドルが、僕にここから落ちてほしいって思ってること」

空気が凍った。リドルの顔から一気に表情が消えた。眩しすぎる夕陽も、その瞳には一筋の光すら映り込んでいなかった。時間が止まってしまったような錯覚・・・

「君は誰を演じているの」

そう言い切った瞬間、太陽が沈んだ。細く射していた光が消える。ハリーの長く伸びた影は、周囲の闇にリドルもろとも溶け込んだ。ハリーはバルコニーの方へ戻り、ぴょんと手すりを乗り越えると、未だ俯いたままのリドルの隣に降り立った。

「・・・リドルが誰にでもそういう態度をとるのを責めてるんじゃないよ。ただ、僕は分かってるから―だから、僕の前でわざわざ『顔』を作らなくていいよ」

黙ったままのリドルに、ハリーは続けた。

「さっき言ったよね。全てを手に入れる、って・・・僕が気になるのは、手に入れたその先のこと」
「先・・・?」

顔を上げたリドルからは完全に表情が消えていた。容貌の美しさも相まって、良くも悪くも彼はまるで精巧な人形のようだった。彼は考えていないのだろう。全てを手に入れた自分が、本当に満足できるのか―幸せだと、思えるのか。

「なんていうか・・・とにかく僕が言いたいのは、」

ハリーはゆるく笑うと、続けた。

「必要以上に先読みしたり、仮面をかぶったりしなくてもいいんだよってこと」

彼は狂ったように笑い出した。深い闇を湛えた両目がハリーを冷たく射抜いた。

「じゃあ、君の目には僕が滑稽に映っているのかな?見え透いた嘘ばかりつく馬鹿だって?」
「違うよ、リドルのことを否定したいんじゃない」
「そういうことだろう!」
「わかるから。君の、寂しさが」
「―・・・」
「たぶん、僕と同じ―」

その先は続かなかった。次の瞬間ハリーの眼前にリドルの顔があった。実体の無い彼に、なんておかしな話だが―その時ハリーは確かにリドルの腕に引き寄せられていた。後頭部にひやりとした感触。もう片方の手はハリーの顔の輪郭を確かめるかのように顎に添えられている。もし彼に呼吸があるならば吐息が感じられそうな距離で、端正な唇が動いた。

「ただの子供のくせに。随分と偉そうな口を聞くんだね、君は」
「・・・死んでほしいって思った?」

リドルは曖昧に微笑んだ。ハリーも彼にはっきりとした答えを求めていたわけではなかったので、それは別にどうでもよかった。―まだ、いい・・・このまま、曖昧なままで。

「僕はね、答えの出ないことが嫌いなんだよ」

ハリーは頷いた。彼の目の中に、自分がぼんやりと映っている。そこに映る顔はまるで別人のように見えた。

「正解出来ない問題なんてなかった。掴めない人間なんていなかった。・・・分からないのは、君が初めてだよ」
「リドル・・・?」
「ねえ、どうしてやろうか」

―どうすればいい?

リドルの両手がハリーの首に伸びた。明らかに首を絞める体勢を取りながらも、触れるだけの指はまだ何か迷っているようだった。長い指が離れ、ハリーの唇をなぞる。突然訪れたひんやりした感覚に身を竦ませるも、ハリーはリドルから逃げようとはしなかった。

「・・・逃げないんだね。僕が力のないゴーストだから?」
「逃げないよ」

ハリーはリドルの目を真っ直ぐ見つめて言った。はっきりした輪郭が無い彼の手に、ゆっくりと自分の手を重ね合わせる。無機質な黒の瞳の奥が、少しだけ揺れたような気がした。

「あのね、リドル・・・君が思ってるほど、君の手は冷たくないから」

リドルは黙ったまま、ハリーを抱きしめる、というよりは―そのまま寄り掛かってきた。ハリーの頭の上に顎を乗せた彼が、どんな表情をしているかは見えない。

「・・・やっぱり君は変な子だ」

長い沈黙の後、リドルからようやく聞こえてきたのはとても素っ気ない言葉だった。その後に言葉を続けようとして、だが彼は途中で諦めたようだった。代わりにハリーの指を、透明な―しかしハリーよりは大きな手で、黙ったままぎゅっと包み込んだ。太陽が沈み、あたりは刻一刻と暗くなっていく。長い沈黙。だが不思議と安らげる沈黙だった。今やハリーとリドルの身体は完全に密着している。ハリーはぽつりと呟いた。

「輪郭が、なくなっちゃったみたい」
「―そうだね。ま、実際今の僕には輪郭なんてないけど・・・でも」
「でも?」

リドル少しだけ顔を下にずらすと、ハリーの額に自分の額をそっと合わせた。鼻先が触れて、ハリーは不覚にも心臓が跳ねるのを感じだ。端正な顔が目の前にある。焦点が合わないくらいの至近距離で、彼はかき消されてしまいそうな小さな声で囁いた。



「―君に直接触れられたらいいのにって思うよ」



その時一瞬だけ唇に感じた冷たさが、絶えず吹いている冷たい風によるものなのか、それとも彼の唇の温度なのか―その時のハリーには、よく分からなかった。












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