ウィスパーボイスのダイアリー【2】-A 意外なことに、あの不思議な出会いから、リドルが姿を現すことはほとんど無かった。ハリーが常に誰かといるので、彼も姿を現しにくかったのだろうか?だが、これ以上悩みの種を増やしたくないハリーにとってはありがたいことだった。あの"決闘クラブ"での事件から、まだそれほど日が経ったわけではないが、ハリーに関する話が様々な尾ヒレをつけて出回るのには十分だったようで、ハリーは学校のどこに居ても、常に誰かからの突き刺すような視線とひそひそ話に耐えなければならなかった。 ハリーこそが"スリザリンの継承者"だという噂は、ナギニの存在によってさらに信憑性を増した。ハーマイオニーもロンも、ヴォル本人でさえも、ハリーに蛇と離れるよう勧めたが、ハリーはなかなか聞かなかった。 「ねえハリー、みんなが噂してるのよ。あなたがその蛇を襲わせるつもりなんだって…ハグリッドに預けるとか、暫く離れるのが賢明だと思うわ」 「…うん。そうした方がいいのは分かるけど…」 ハリーは膝に載せた蛇の鱗をそっと撫でた。 「でもナギニは今までずっと側にいてくれたんだ。…自分の都合のために離れるなんて、僕にはできない」 溜息をついたハーマイオニーがいなくなると、ヴォルが言った。 「変な意地を張るのはやめろ。あの少女の言うとおりにするべきだ。今回のことでよく分かっただろう?人の心ほど信用出来ないものはない…誰かに悪役をやらせて、自分は安全な場所で群れていたいだけだ」 「……。でももし、僕のいないところで、僕のせいで、ヴォルが傷付けられたら…」 「それはむしろお前に当て嵌まる」 蛇は苛立ったようにシューシューと音を立てた。 「人間は愚かだ…そろそろお前に危害を加える者が出てきてもおかしくない」 心のどこかで、まだホグワーツの生徒達を信用していたハリーはその言葉を本気にしなかった。しかし、ヴォルデモートの忠告は、すぐに現実のものとなってしまった。 + 今や学校中の注目を浴びているハリーのために、ロンとハーマイオニーは授業の移動にも気を遣って、わざわざ人気の無い道を選んで遠回りしてくれていた(ハリーは申し訳無い気持ちになると同時に改めて二人の友人に感謝した)。その日もそうやって、なんとか人の目をやり過ごすはずだったのだが、あとは階段を上るだけというところでそれは起こった。 いくら人目を避けていても、生徒数の多いホグワーツで誰にも会わずに移動するのは不可能に近い。ハッフルパフの2年生の女の子2人が、ちょうどハリー達3人に向かって歩いて来ていた。案の定、二人は怯えと怒りの入り混じった目でハリーを見ている。視線をやり過ごして、このまま通り過ぎればいい―ハリーはそう思って、何も気にしないようにした。しかし、女の子のうちの一人が、ハリーと擦れ違う時に、手に持っていた教科書を落としてしまった。 「…あ、っ」 一瞬の沈黙。このまま通り過ぎるのもどうかと思い、ハリーは屈むと女の子の教科書を拾い、彼女に手渡した。しかしそれが間違っていた。 「はい、どうぞ」 「ひッ―!」 屈んだことでローブが微妙に肩からずれてしまい、ハリーの首に巻き付いていたナギニが見えてしまったのだ。女の子は黒光りする鱗を目にすると、恐怖の余り自制心を失った。 「いやあああああ!!!」 「っ!?」 彼女は突然ハリーの身体を突き飛ばした。咄嗟のことで反応しきれなかったハリーはどうすることも出来ず、階段の一番下まで落ちていった。地面にぶつかる直前、ハリーはなんとかナギニだけは庇うことに成功した―しかし身体に鈍い衝撃が走る。ハリーの荷物がばらける音が、階段に虚しく反響した。 「ハリー!」 唖然として動けなかったロンとハーマイオニーが、地面にうずくまるハリーを見て慌てて駆け寄る。だがその前に、完全にヒステリーを起こした女の子が杖を出し、その先端を無防備なナギニに向けていた。彼女の唇が震えながら動くのを見て、ハリーはハッとして蛇を抱きしめた。 「ス、ステュピファー―!」 「プロテゴ!」 呪文の衝撃を覚悟した瞬間、大きな盾が、ハリーと呪文の間に現れた。ハリーに刺さるはずだった赤い光が、盾に弾かれて霧散する。恐る恐る目を開けると、そこには蝙蝠のようなな黒い影が―スネイプが、息を切らせて立っていた。教師の姿を見て、女の子はようやく自分が何をしてしまったのか気付いたらしい。 「ぁ―わ、私は…」 「お前達は早く、次の授業へ行け」 スネイプの低い声に、女の子達はほとんど半泣きで廊下を駆けて行った。ハリーの近くに辿り着いたロンとハーマイオニーは、そんな光景を見て呆然としていたが、スネイプが二人に振り向くのを見て、びくりと身体を揺らした。 「聞こえなかったのか?貴様らもだ!」 二人は一瞬だけハリーに目配せすると、慌てて去っていった。一人残されたハリーに向かって、スネイプは一歩一歩階段を下りてくる。 「…立て」 スネイプは、未だ蛇を庇う格好で固まっていたハリーの手首を掴み、無理矢理立たせようと引き上げた。だがスネイプが触れた瞬間、ハリーの手首に鋭い痛みが走った。 「〜っ!」 「……痛めたのか」 彼は溜息をつくと、ハリーの手を離した。 「医務室に行くぞ、ポッター」 「あの、先生、一人で大丈夫です」 「駄目だ」 ハリーはそのまま、半ば引きずられるようにして医務室に連行された。 + 珍しいことに、医務室には誰もいなかった。マダム・ポンフリーもどこかに出張しているようで、しんとした部屋でハリーとスネイプは二人きりだった。 スネイプはハリーを強制的にベッドに座らせると、棚から緑色の湿布を取り出し、ハリーの手首に貼った。 「んっ、冷た…」 「我慢しろ」 つんとした薬品独特の臭いと、刺すような冷たさに慣れてきた頃には、手首の痛みはすっかり引いていた。沈黙が気まずい。ハリーは怖ず怖ずと切り出した。 「あの、先生…もう大丈夫です。ありがとうございました」 立ち上がりかけたハリーを、スネイプはちらりと見遣ると、なぜか制した。 「?……先生?僕、授業に―」 「駄目だ」 スネイプはハリーから目を逸らしてはいたが、その手はしっかりとハリーの肩を掴み、ベッドに押さえ付けている。スネイプは何か言葉を探しているようだった。 「あー―…ポッター、」 「はい?」 「この時間はベッドにいろ」 きょとんとするハリーに、スネイプは仏頂面で続けた。 「貴様、寝ていないだろう」 「えっ…」 「授業中に倒れられたら迷惑だ。―勝手に動いたら、減点する。余計な行動は慎むことだ」 スネイプはそう言い残すと、ハリーに目もくれず医務室を出て行った。蛇はローブの下からシュルシュルと這い出るとハリーを睨み付けた。 「―どういうことだ」 「ええと、その…最近、寝付きが悪くて」 「(…ごまかせてたつもり、だったんだけどな…)」 ―蔑まれるのには慣れているはずだった。しかし"パーセルタング"に対する偏見は、想像以上にひどく―そう、自分一人なら平気だったのだ。だが、ハーマイオニーやロンが、ハリーと一緒にいることで陰口を叩かれるのはハリーにとってはとても辛いことだった。そしておそらくそのせいで―ベッドに入っても、神経が研ぎ澄まされて眠れなかったのだ。 言い訳をするハリーを、ヴォルは静かに睨んでいたが、尾でハリーの怪我をしていない方の腕をぺしりと叩いた。 「っ、」 「お前は馬鹿だ」 その声は明らかに怒りを含んでいた。 「誰が俺様を庇えと言った?善人面をして、余計なことを」 「っでも!あのままじゃヴォルが―」 「黙れ!」 息の詰まるような沈黙。ハリーはヴォルデモートの怒る理由をなんとなく察していた。彼はとてもプライドが高い。おそらく、蛇の姿を借りて這い回るしかない自分の無力さが悔しいのだ― 「(…でも、ヴォルが怒ってるのは、きっとそれだけじゃない)」 「お前が最初から言う通りにしていれば、こんなふうにはならなかった。そんなことも分からないのか?だからお前は、」 「―ヴォル」 「人の話を、」 「ごめんなさい」 「―…」 「……心配かけて、ごめんね」 蛇は口をつぐんだ。赤い両眼がふいと逸らされる。やがて、不機嫌そうな―だがいつもの調子で、呟いた。 「…寝不足、と言っていたな。寝ろ」 「うん。そうするよ―ねえ、眠るまで隣ににいてくれる?」 「……」 「お願い、ヴォル」 「…今回だけだぞ」 「ありがとう」 ハリーはベッドに横になると、とぐろを巻いた蛇をそっと腕の中に閉じ込めた。例え忌み嫌われるものだとしても、ハリーにとってパーセルタングは子守唄のようにあたたかくて(本物の子守唄は知らないけれども)、優しいものだった。しんとしたベッドで、蛇から密やかに息が漏れる。 「…誰が何と言おうと、お前はお前だ」 「そう、かな…」 「何も心配しなくていい―俺様が、お前の近くにいる限り」 「うん…ありがと…」 やがてハリーが深い眠りに落ちると、蛇は鎌首をもたげ、すぐ側で眠る少女を暗い目で見つめた。 「(変に目立ってこの媒体が傷つけられたら困る―それだけのことだ。この子供は使える…だからそれ以上の意味などない)」 黒い蛇はベッドを抜け出すと、無音で部屋を出て行った。 * 「―何?今の」 リドルはハリーは鞄の隙間から、一部始終をすべて見ていた。ハリーは無防備な寝顔を晒している。リドルは半透明の人の形をとると、その顔を冷たく見下ろした。 「あれが僕の未来の姿とは、情けない」 情に訴えて、この娘を手に入れようとしているのか?確かにパーセルタングであることは興味深いが、こんな小娘に一体何の価値が?―未来の自分が何を企んでいるかは知らないが、ハリー・ポッターに何らかの執着を見せていることは明らかだ。"ヴォルデモート卿"はもっと傍若無人であるべきなのに、何故この娘と馴れ合うような行動をとるのだろうか?それにいくら無力な蛇の姿をしていても、生徒に噛み付くくらいは出来るはずだ。そのせいでハリーが非難を浴びることになるとしても、だからどうだというのだ? 「……それにしても、君は変わってるね」 蛇は変温動物だ。寄り添って眠ったところで温もりなどない。むしろ冷たいだけだろうに―そう、あの蛇の中に入っている魂だって、同じように冷え切っているのだ。それなのに、なぜこの娘はわざわざ蛇と眠るのだろうか。―もしかしたら、この娘の芯の部分も、実は冷えきっているのかもしれない。あるいは、あの蛇が―自分の未来が―この娘の温もりを求めて―なんて、まさか、そんな馬鹿なことが。 ―有り得ない。 考えていたら無性に腹が立ってきた。少し意地悪してやろうと、目の前で変わらず穏やかな寝息を立てている少女に、そっと腕を伸ばす。彼女にしてみれば氷のように冷たいであろう人指し指で、額を突いた。―この娘には不快な刺激のはずだ。起きるだろうか? 「ん……」 僅かに身じろぎはしたものの、ハリーは起きなかった。冷たさに顔を顰めることもなかった。驚いたことに―何か夢でも見ているのだろうか?ハリーは目を閉じたまま、ふわりと微笑んだ。 「っ・・・」 思わぬ反応を返されたリドルは、反射的に指を引っ込めた。ゴースト(正確にはゴーストでは無いが、まあ似たようなものだろう)の指先なんて、ただ冷たいだけなのに、何故。どうして。 リドルは俯いた。今までに感じたことの無い、何か謎めいた気持ち悪い感情が自分の頭を支配するのを感じていた。目の前には少女がいる。だがまるで、たった独りでどこかに取り残されたような―… 「(何を考えているんだ、僕は…)」 今日はどうも調子が悪い。いや、自分は悪くない―この娘が悪いのだ。生き残った女の子だかなんだか知らないが、いずれは死ぬ運命だろう。 「その日が来るまで、せいぜい馬鹿みたいに笑ってればいいよ」 吐き捨てた言葉とは裏腹に、棄てられた子猫のような表情を浮かべて、触れた指先を無意識のうちに握り締めたことには結局気付かぬまま、リドルは静かに日記に潜った。 |