ウィスパーボイスのダイアリー【2】-@ ハーマイオニーが猫のポリジュース薬を飲んでしまってから数日が経った。マダム・ポンフリーのおかげで、彼女はようやく人間らしい顔を取り戻しつつある。ハリーとロンは暇を見つけては彼女のところへ通い、ひどく落ち込んだ彼女を慰めていたが、喜ばしいことに、顔から猫っぽさが抜けるにつれ、ハーマイオニーの機嫌もよくなっていくようだった。 ハーマイオニーに別れを告げ、ハリーはロンと談話室へと続く廊下を歩いていた。たわいもない話をしていると、ロンが突然足を止めた。 「おい、ハリー!あれ見ろよ」 「どうしたの?」 ロンの視線の先を追うと、そこには大きな水溜まりが出来ていた。廊下はびしょびしょである。 「これはフィルチが怒るぞ……ハリー?」 「あそこのトイレからだ…ロン、行ってみよう」 「え、でもそこ女子トイレじゃ…」 「大丈夫だよ」 ロンはあまり気乗りしないようだったが、ハリーがすたすた歩き始めると、渋々といった様子でハリーについて来た。二人で女子トイレに入ると、そこは廊下以上に酷い状態だった。水道管が壊れて、そこから勢いよく水が噴き出している。 「うええぇ、びしょ濡れだ!一体誰がこんな―」 「―そこに誰かいるの!?」 突然個室の方から鋭い声が聞こえて、ハリーとロンは同時に飛び上がった。―だが聞き覚えのある声だ。ハリーは恐る恐る、個室の方を覗き込んだ。トイレといえば、彼女しかいない。 「マートル!…大丈夫?」 「あぁら、ハリーじゃない!大丈夫なわけないわ!…いくらあたしが死んでるからってこんな―こんなこと―!」 マートルがしゃくりあげると、また水の勢いが強くなった(ロンは靴を脱ぎ中に溜まった水を抜いている)。とりあえず彼女を落ち着かせなければならないようだ。ハリーは出来るだけ優しい声で、彼女に話しかけた。 「ねえ、マートル…何があったのか、教えて?」 「うぅっ…あたしはなんにもしてないのよ?それなのに、あたしに本を投げ付ける奴がいたのよ」 「本?」 「ええ、あそこに落ちてるわ」 マートルは別の個室を指差した。 「うん―それは確かにひどい奴だけど」 ロンはローブの裾を絞りながら投げやりに言った。 「でも、物を投げられたって、君はもう死んでるんだから、問題ないんじゃないか?」 ハリーは嫌な予感がして、ロンを止めようとしたが、もう遅かった。マートルはキッとロンを睨みつけると、ええ死んでるわよ悪かったわね!という捨て台詞を吐き、勢いよくタンクに飛び込んだ。凄まじい水しぶきが頭からロンを飲み込んだ(ハリーはとっさに避けたので、直撃は免れた)。 「くそっ!あいつめ、自分は透明だからって…!はあ、なんで僕ばっかりこんな目に…」 「今のはロンも悪かったと思うよ。ゴーストだって感情はあるんだから」 言いながらハリーは、先程マートルが示した場所へ近づいていった。確かにそこには、黒い本のようなものが落ちている。―いや、見た感じだと…日記、だろうか? ハリーはローブが濡れないよう気を付けながら、その場にしゃがみ、黒い表紙の本を見た。何の変哲もないデザインだが、何故か、この本をどこかで見たことがあるような―不思議な懐かしさのようなものを感じる。それと同時に、本の中から誰かに見られているような、奇妙な感覚…ハリーは魅せられたように黒い皮表紙に手を伸ばした。この本を開きたい強い衝動に駆られていた。 「ハリー!そんなの迂闊に触ったら…うわっ!!」 ロンの制止は少し遅かった。ハリーは既に本に手を伸ばしていた―そして、表紙に指先が触れた瞬間、それは起こった。 「(え―?)」 ―ドクン。何かが脈打つような音が響き、ハリーの視界が揺れた。日記に触っている部分から、何か熱を帯びた…生々しい、動脈のようなものが繋がれているような感覚…そして、目が開けられないほどの強い光。しかし意外なことに、それは一瞬で収まった。ハリーはまだ呆然としていたが、一足先に我に返ったロンが、慌てて駆け寄ってきた。 「ハリー、大丈夫か―っ!?」 ハリーは振り向いてロンの顔を見た。何故か、不思議なことに、その時は自分の動きがひどく客観的なものに感じられた―まるで自分が自分でなくなってしまったのかのような―…ハリーと目が合うと、ロンは顔を引き攣らせ、一歩後退った。どうしてだろう? 「……ロン?どうかした?」 ロンは何回か瞬きをすると、ハリーの顔をまじまじと見た。 「気のせいだとは思うんだけど、今、君の顔が―というか、目の色が変わった気がしたんだ。」 「目?」 ハリーは側にあった洗面台の鏡で自分の顔を覗き込んだ。いつもと変わらない、 母譲りのグリーンの目が、自分を見返している。 「うーん、いつも通りだと思うけど…」 「さっきは真っ赤に見えたんだ。ま、きっと僕の思い込みだろう。それより、その本…何なんだ?ハリー、何か変わったこととか無いよな?」 ハリーは手に持った日記を見た。先程の不思議な感覚は、もう感じない。あれは一体、何だったのだろう?しかし、ロンに大丈夫だと返事をしようとした口を開いた瞬間、ハリーは固まった。真後ろに人の気配がしたのだ。勢いよく振り向くと、そこには見知らぬ男子生徒のゴーストのようなものが立っていた。 「―!?」 ハリーはぎょっとして、声を上げそうになった。が、次の瞬間、その男子生徒の手の平に口を塞がれ、思わず息を止めた。唇にひんやりした冷気が触れている。彼はハリーを見据えたまま、空いた方の手の人差し指を立て、そっと自分の口元に持って行った。―何も言うな、という合図のようだ。 「…おい、ハリー?まさか何か変な呪いに―」 「大丈夫だよ。心配しないで」 別に彼の言う通りにする必要は無かったのだが、気付くとハリーはそう言っていた。謎の少年は唇の端を少しだけ吊り上げて頷く。ロンには彼が見えないのだろうか?。ハリーは本を開いた。やはり日記帳のようだ。どのページも白紙で、何も書かれていない。持ち主の名前は、 「T・M・リドル…?」 「あっ、僕はこの人知ってるぞ!」 ロンが突然声を大きくした。 「本当!?でも、どうして?」 「罰則で、こいつのトロフィーを200回も磨いたんだ。嫌でも覚えるよ」 隣の少年は頷き、薄く笑ってハリーを見ている。反応から察するに、おそらく彼がT・M・リドルなのだろう。だけど、どうしてこんな…?ロンは続けた。 「―確か、特別功労賞だ。50年前の」 ―50年前!秘密の部屋が開かれたのも50年前だ。彼は何か知っているのだろうか。 ハリーが問い掛けるように視線を向けると、少年は綺麗に微笑んだ。 * ロンと共に談話室に戻った後、ハリーは一人、女子寮への階段を上っていた。先ほどまでいた少年はいつのまにか消えてしまい、見当たらない。 「(さっきの人、どこ行っちゃったんだろう…?)」 ヴォルは出掛けたらしく、寝室のどこにも姿は無かった。隣のベッドにいるはずのハーマイオニーは知っての通り入院中だ。一人きりの部屋は、いつもより広く感じる。ハリーは手に持っていた日記をぽすんとベッドに投げると、その脇に寝転がった。しばらく天井をぼんやりと眺めていたハリーだが、慣れない静寂に耐え切れず、なんとなく、自分の身体をぎゅっと抱きしめた。その時だった。 「―ねえ、寒いの?」 突然降ってきた声に驚いて目を開けると、さっきの少年―リドルが、ベッドに腰掛け、ハリーをすぐ側で見下ろしていた。驚きの余り声も出せないハリーを楽しげに観察しながら、彼はその半透明の腕を、ハリーの頭の両脇につくと、ぐっと距離を縮めて、耳元でそっと囁いた。 「…何なら、僕が暖めてあげようか」 「!?っ、ひぁあ!」 「嫌がってるわりには、顔が真っ赤だけど?」 ハリーが振り払う動きをする一瞬前に、彼はハリーから離れていた。枕を盾にして壁の方に後退するハリーを、彼はにやにや笑いながら見ている。やがて落ち着きを取り戻したハリーは、恐る恐る少年に問い掛けた。 「君は…一体何者なの?どうして日記から…?」 「僕は"記憶"だよ。50年前のね」 「記憶?」 リドルは誤魔かすように曖昧に微笑んだ。 「ゴーストとは似て非なるものさ。―ところで、自己紹介がまだだったね」 そう言うと、リドルはハリーのベッドの端に足を組んで座った。何でもない動作のはずなのに、彼のそれはどこか気品があって、とても優雅なものに思えた。 「トム・マールヴォロ・リドルだ。よろしく」 ハリーは恐々枕を下ろした。 「僕は、ハリー・ポッター…です」 「うん。初めまして、ハリー」 リドルはハリーの顔をまじまじと見ている。 「ふうん。君が、ね…」 「な、何?」 「いや、ちょっとした知り合いが、君のことをやたら褒めるものから、どんな子かと思ってたけど…」 「?知り合い、って…?」 ハリーの疑問には答えず、リドルは少しずつ距離を縮めてきた。吐息すら感じられそうな距離で(彼は息をしていないが)、端正な薄い唇が、綺麗な三日月型の弧を描く。 「聞いてたよりもずっと魅力的だ。すごく可愛い」 ―普通の女の子なら、ここで一気に舞い上がるのだろう。もちろんハリーとて、"可愛い"という言葉を男の子に言われて、全く嬉しくないわけではない。しかし、ハリーはリドルの言葉を素直に受け止めることはできなかった。 「(何だろう…この感じ)」 まだ会ってから数分と経たないが、リドルの所作は全体的に作り物じみた印象があった。まるでどこかに台本があって、与えられた役を忠実に演じているような―… 気まずさに耐え切れなくなったハリーが目を逸らすと、リドルはそれを気にした様子も無く、部屋をぐるりと見渡した。 「この部屋には、君しかいないのかい?」 「ううん。ハーマイオニーは―隣のベッドの子だけど、訳あって入院中で、あとはヴォルが…」 「―ヴォル?」 ハリーはしまった、と思うも既に遅かった。人前ではナギニと呼んでいるが、この少年が生身の人間ではないことでつい油断してしまったようだ。 「(でも、リドルは50年前の人らしいし…ヴォルデモート卿のことは知らないはずだよね?)」 「…今、"ヴォル"って言ったね」 だがリドルの顔からは、先ほどまで張り付いていた胡散臭い笑顔が消えていた。感情を読み取らせない真っ黒な両眼が、ハリーを静かに射抜く。 「それは、誰のことを言っているのかな」 「人、ではないよ」 ハリーは慎重に言葉を選びながら言った。 「ヴォルは蛇だよ。僕が小さい頃から、ずっと一緒にいるんだ」 「蛇……」 その言葉を最後に、リドルはしばらく考え込んでいたが、途中で何かに気が付いたようにハッと顔を上げた。 「もしかして、君は蛇の言葉が話せるのかい?」 「うん。話せるよ…皆からしたら、おかしいみたいだけど」 パーセルタングのことは、ハリーが今最も触れてほしくない話題の一つだった。生徒達の冷たい視線が蘇る。 「…いや。おかしくないよ」 ハリーには、なぜかリドルが嬉しそうに見えた。しかし同時に、どこか不気味でもあった。 「―むしろ、話せない方がおかしいんだ」 「…リドル?」 「ねえハリー、」 俯いた顔を上げたリドルは、また元の嘘っぽい表情に戻っていた。そして、ハリーの肩に両手を置くと、少し首を傾けて悪戯っぽく微笑み、そっと囁いた。 「僕たちが出会ったことは、二人だけの秘密にしようか」 「ぇ―?」 ハリーが言葉を発する前に、リドルの姿は消えてしまっていた。―日記に戻った、ということだろうか。 今回も、別にリドルの言う通りにする必要はどこにも無かった。普段のハリーなら、この不可解な出来事を誰かに相談するだろう。しかし、なぜかハリーはそうしなかった。自分でも不思議だったが、リドルの言葉が胸にすとんと入ってきたのだ。命令されたものを受け入れる感覚とは違う―まるで、自分も最初から同じことを考えていたかのような―… ヴォルが戻って来ても、ハリーは日記については一言も触れなかった。 +++++ |