◎ 君の桃香に僕が泣く
「わたしが死んだら、泣いてくれる?」
ベッドで僕の腕の中に擦り寄った彼女が、突然そんなことを問うてきた。こくりと首を傾げた彼女は、朝陽を背にするにはあまりにも綺麗で、そして儚い霧のようだった。
彼女の、丁寧に手入れされた爪が僕の頬を伝う。まるで何かを恐れているかのような臆病な指先。
僕は僕の瞳を覗き込む彼女を見る。
切なく揺れる瞳に、心が締め上げられる感覚に襲われ、涙が込み上げた。
僕は彼女がこんな例え話をするのは、好かない。
だってそれはいつも僕にとっては愚問だし、それに、彼女の例え話はいつも切なくて、哀しい。
僕は、頬に触れる彼女の指先が無性に愛しくなり、強く抱きすくめる。
彼女は驚いたように身を一瞬だけ固めたが、直ぐに緊張をほどいて僕の胸に顔をうずめた。胸元に控えめな頬擦りをしてくるのが可愛らしくて、僕は少しだけ、ほんの少しだけ微笑った。
けれども微かに震えている彼女の肩が、微笑みを掻き消していく。
僕はそのあまりに華奢な肩が壊れてしまいそうで、抱きしめる、腕の力を抜いた。だらりと彼女に凭れ掛かるだけの僕の腕。
戸惑うばかりの僕に、彼女は囁く。
離さないで。抱きしめていて、と。小さく。
それが何だかとてつもなく悲痛な叫びに聴こえて、僕はまた、涙が込み上げるのを感じた。
彼女を労るように、黒い真っ直ぐな髪をなるべく優しく撫でてやる。
そして、いよいよ溢れだしてきた涙を堪え、彼女に問い掛けた。
「僕が君を失って、哀しまないと思うの?」
耳元にそっと言葉を流し込むと、彼女は僕とは裏腹に安心したようだった。
悲痛な叫びだったと思う。僕の問いも。
彼女が淡い深呼吸をし、僕の胸元にいっそう頬をすり寄せる。
僕らを取り巻く空気に、小さな安穏が訪れる。
「すぐに、泣きわめくわね、きっと。わたしがいないと、あなたはすぐ駄目になってしまいそう」
嬉しそうに笑う彼女と、何処か拙い口付けをした。
唇が触れあう間際に覗き込んだ彼女の瞳はもう揺れていなかったし、切なさも消えていた。
唇が離れていくと、彼女の桃香が鼻をくすぐる。幸福の香りだ。
この香りが僕のシャツから香る時、彼女の微笑みや、落ち着いた声や、マニキュアの色彩は、今や僕と同化している、と感じる。なんて幸福なことだ。
死んだときの話は、もうしなくていい。他の例え話だってそう。
想像するだけで涙は溢れてしまうから。
幸福だけを感じていようよ。
けれど、もし。
僕が死んだら泣いて欲しい、というのは、贅沢な願いなのだろうか。
吁、今は告げないでおこう、君の笑顔が崩れないように。
僕たちは朝陽の柔らかい光に微睡む。
桃香が僕たちを包み込むのを感じながら、互いの温もりをシーツにして進展も変化も求めずに、ただ、二人の休日は過ぎていく。
終
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