企画 / 死人に梔子


 ――死人に梔子――



 例えば、“聖母のように微笑み、奇形の仔を抱いて水銀の涙を流した”などと噂されている彼女も、この街に狂わされていた被害者だと言っていい。
“愛してる。だから愛してね”
 そう、まるで、また明日会いましょうねと約束を交わすように彼女は微笑み、ピストルにキスをした。小さくも情熱的な吐息は、頬を伝う涙さえ忘れさせた。ピストルはやがて、彼女の頭蓋に盛大な嬌声を上げて、それきりだ。
 彼女の微笑みは、或いは確かに聖母と言えたかも知れない。本当に心穏やかで、晴々としている。彼女自身、そう言い残していたくらいだから。ただそれを見ていた彼女の想い人は、白衣を血溜まりに浸し、崩れ落ちた彼女の身体をひたすらに抱き締めた。
 悲しんで、というわけではない。彼はとうの昔に狂い果てているのだ。
“梔子を添えよう、とびきり甘い香りの、梔子を”
“骨の髄まで愛し抜くよ、君を貫いた弾丸さえ俺は愛そう”
 そう言って、彼は、少年のように笑った。

 ――廃都。
 かつて華やかな歴史を謳歌した都市の、残骸とも言うべき街。ひたすらにドラッグに溺れる者、呼吸をするように人を殺める者、精神を病み瞳に光の差さぬ者……そして、血溜まりに微笑む者。
 何もかもが廃れ、病み、朽ちていく街。
 廃墟、瓦礫と死屍累々。マンホールの下では今日も、幾つかの死体が投げ込まれる。
 それでいいのか、それがいいのか。この街は朽ちて尚姿を変えようとはしない。

 気味が悪い程に美しい朱のカーテンを引いた、黄昏時の空。皮肉か嫌味か、はたまた祝福か。その日の一等星は梔子だった。クチナシ、口無し。死人に梔子。
 空に花が咲く、と言えば比喩と捉えられがちだが、おかしな話、本当に空には、花が咲く。今日は梔子がひらると咲いた。
 彼女も、路地裏で静かに花開いた。夕空も霞む程の鮮烈たる朱と共に。
 彼は笑う。幸せそうに、愛しげに彼女の頬をその手で包み、髪、額、鼻先と唇を落とした。
 最後にやさしく重ねた唇は、乾いていた。
 亡骸は穢れのひとつも知らぬような無垢な微笑みを浮かべ、その口付けを悲劇にはさせなかった。決して潤うことのない青ざめた唇が熱を孕むまで、彼は薄い唇で啄み続け、そして小さく青い唇を舐めてこう言った。

“Anne , My Dear Gardenia.”

 淀んだ橙の瞳が、大輪の花を覗き込んでいる。光の差さない、暗い瞳だ。


* * *


 とある仄暗い小さな部屋。
 窓がひとつ、向かいの壁際に薬棚。窓の側に机と書類。あとは粗末なベッドがあるだけだ。環境は劣悪。薬棚まで日が差したことはなく、昼間でも明かりが必要なほどだった。
 不気味な程の静寂。独り歌が、よく響く。

「あなたに愛されるためなら何だってするわ」

 カルテを滑る万年筆と、ホルマリンに浸けられた誰かの臓器。腎臓や、肝臓、心臓、脳、眼球に、小箱には爪まで。薬棚から見渡す限りのそれは、さて誰のものだったか。もやが掛かって思い出せないが、瓶には女性の名前が書いてある。臓器のひとつひとつが、きっとこの部屋の主に深く愛されていて……そう思うと、嫉妬心が空っぽの胸で渦巻いた。

「私、つぎは何をしよう? あなたのために、何をしよう?」

 黄昏の朱かホルマリンに差し、その艶やかな色彩に目が眩む。窓際は、すこし眩しい。カルテを覗き見ると、無骨な手がちらついた。優しい手と、綺麗な爪。相変わらず愛しい。
 何か出来ることはないのだろうかと、そればかりを考えている、薄暗い薬棚の側。けれど、想いを一蹴するかの如く沈黙を続ける背中に、計り知れぬ焦燥を感じていた。思考に影が差す。
 朱から視線を泳がせていると、目が合った、気がした。優しげな視線に反して、背中は沈黙を続けて……。
 ――背中?

「……ああ、困るわね。私、頭空っぽだから……忘れっぽくて」


 * * *


 幾度目かの恋で彼女が出会った人は、精神を病んだ精神科医だった。外科、内科もこなす、優秀な人間。
 白んだ空のような、青掛かった白髪に目元の多数のピアス。右目が隠れていて、いかにも薮医者といった佇まいだった。そうでなければ闇医者だ。
 彼は名をツァイト・アダムスと、後から知ったのだが……それはさておき、彼は、人を殺めていた。それも、隠蔽が難しい数を。
“死には慣れている。医師としてではなく”
 そう真顔で言い放つツァイトからは、最早その行動を隠そうともしていないことが窺えた。こんな街だからまかり通る発言だ。
 何故人を殺めるのか?
問いにツァイトは、骨格標本が欲しいだけだ、とだけ。それがどうかしたか? そう問い掛けてくる瞳に、光が差さない理由を垣間見た。
 エレベーター内は、ひどく暗い。
 頭の中で警鐘が鳴り響いていた。ひどい頭痛が彼女を襲い、ツァイトを拒絶していた。
 しかし、人というのは、時に自らでさえ予測不可能だ。そしてそうして起きた事象には大抵、抗えない。

「私で、最後にして」
「……あ?」

 自らの言葉に、彼女は戦慄した。
 ツァイトは無表情で、静かに彼女を見下ろしている。やがてエレベーターが止まる頃に、耳許でこう囁いた。
 ――それはプロポーズか? と。
 そして悪戯に微笑みを浮かべ、彼女の髪を優しく撫でて去って行った。ひとり。エレベーター内にひとりだけ、彼女を残して。
 愛し合うようになるとは、確信の持てなかった頃の話だ。


 * * *


 今思えば、命の捧げ方を誤ったのではと、思う。
 頭蓋は破損しているし、骨格標本としては失格だ。或いは、そういった欠損も彼の趣味なのかもしれないが、傷一つなく傍らにいることも良かったかもしれないと、彼女は思いを馳せたに違いない。
 もちろん、今となっては彼女に尋ねることも出来ない。死人に口無しとは先人たちは良い言葉を残していったものだ。

 あの日あの時の話だ。
 花嫁には新郎から一丁のピストルがプレゼントされた。華々しいリボンの掛かった、銀のピストルだ。
 彼女は少しの間瞬きをして、おかしそうに笑った。これからまさに自らを撃ち抜けというのに、彼女は笑ったのだ。無邪気な、穢れを知らない少女のように。幸せを噛み締める花嫁は、“これは二人の子供ね”と気の狂ったことをさらりと言ってのけた。
 二人の間に授かった仔。
 銀の身体と、それからリボン。
 奇形の仔を愛しげに抱いて、彼女は泣いた。
 ツァイト・アダムスの最大の愛を受けられるのだと、そして彼が最も美しいと思う姿で、傍らに佇めるのだという喜びの泣哭だった。
 新婚生活に不自由がないとは言えない。抱き合えないし、キスも出来ない。だが、不満はないだろう。二人にはむしろ、それがいいのだ。

「あなたを見ている。窓際の眼で、薬棚の脳で、腎臓、肝臓、心臓……私はカラダで、あなたを見ている」

「“Anne”が、見てる」

 黄昏の朱は、濃紺に溶けていく。
 風が止む。深い闇が訪れる。
 部屋を訪れた看護婦は今日も、どこかで誰かが狂い果てたと告げる。慟哭と、微かに血の臭いさえ帯びた狂気が日常に蔓延っている街。彼女もまたその狂気に溺れたひとり、そう珍しくもない。

「愛しくて、骨抜きにされそう」

 彼の、淀んだ橙の瞳を覗き込む。
 光の差さない、暗い瞳だ。




 ――了


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▼吊られた男
Doll Cityよりツァイト・アダムスとアンヌ・レクンリーフを使用しました。

(後書きは後日ブログにて)


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