07:18 SS / 握り飯(2013/06/24)
ふと気が付くと、時計の針は四時を指していた。筆を持ってから如何程も針は進んでいないようだった。ああ、あの古時計もついに壊れたかと、ほんの一瞬思った。
しかし腹の虫は鳴るし、睡魔は襲ってくる。先ほど食べて、寝たと思ったが、どうやら僕の勘違いだったらしい。
執筆を始めてから十と六時間、時は流れていた。時計の針は一周くるりと回って、今の時刻を示しているのだとようやく気が付いた。
時を把握した途端、手が痺れを訴えた。もう筆は持てぬ、休めと身体が軋んだ。
……ふむ、疲れた。
ここで深く呼吸をひとつ、それから、ゆっくりと筆を置いた。
勉学にも、書き物にも、励み過ぎるのはよくない。取り敢えずは、腹に収める何かを調達するのが優先事項だ。
障子を滑らせ、自室を出ようとした矢先の、ことだった。
「……母か」
握り飯と、茶。
廊下に控えめに佇む藍染めの布巾。その下は、いつもそれと決まっている。
二つの大きな握り飯、それから、余ってしまったであろう量で握られた小さな握り飯。いつも配分というものは考えないのか不思議であるが、母は大雑把な性格は嫌いてはない。これ、こどもね! そう言う、母の笑顔を思い出した。
腹の虫がくるりと鳴る。握り飯をとって、一口、あんぐりと握り飯をかぶった。
すこしだけ、からい。この塩加減が、昔から慣れ親しんだ母の味だった。
「うまい」
甘辛の醤油に浸した唐揚げが、中にころりと入っているのが、定番の我が家の握り飯だ。
あぐ、あぐ、と食べ進め、僕は、いつの間にか泣いていた。ぼろぼろ、ぼろぼろ、大粒の涙が溢れた。
握り飯も茶も、まだ温かいものだから。
――僕の何を知っているのかとなじった、あの晩を思い出していた。
弱い自分を認めたくなくて、ひたすらに母を責めた、あの。
何を考えているのか、親子といえと結局は違う、人と人なのだから言わなければ分からないのは当たり前だ。今では、分かる。
どんな切っ掛けで学校に行かなくなって、卒業したと思えば小説家など目指して、きっと母には理解出来ないことだが、母がいくつか知っていたことがある。
僕が執筆を始めてからどのくらいで集中力が切れるかとか、腹を空かす頃合だとか、僕が猫舌で熱い茶は飲めないことだとか、どれくらいの温かさを好むのかとか、僕さえ知らないことだ。
気配りに触れる度、母は、僕の母なのだと痛感する。理解を得られずとも、切り離せない何かがそこにあるのだと。
(うまいものをどれだけ食うてきても、最期に食べたいと思うのは、母の味なんだろうなあ)
「母さん」
「ばれたっ」
廊下の先でひょっこりと覗いていた母に、声を掛けたら引っ込んだ。僕は涙を拭ってから、また、「母さん」と。
「……おいしかった?」
またひょっこりと覗いて、そんなことを尋ねる可愛らしい母の、老いたことだ。
働き詰めて、苦労して、それでもずっと、“母親”なあなたに、僕は何をしてやれるのだろう。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「よかったよかった」
にっこりるんるんと笑う母。
ありがとう、と言えば、照れてはぐらかすのを僕は知っている。だから、密やかに
(ありがとうございます)
「徹夜は良くないけど、物書きさんは書ける時っての逃しちゃだめだしねぇ。大変よね」
最早、僕を小説家として扱う母は、きっと、僕が涙していたこともちゃっかり見ているだろうし、……涙の理由も知っているのだろう。
そんな気がする。
――――――
雨がしとしとと降り、少し暗い朝のこと。
あったかいです。こういう愛、ありがたいですね。
お母さんの手料理が、一番すきで、
いつか私もお母さんになったら、子にもそう、思って貰えるようになりたいです。ね。
そんなお話でした。
(ここに置いていくのは私の日常を基盤として記したものです。実話もどき。)