第参話


 
そんな成り行きで、俺は『うさぎ漢方極楽満月』の店主、白澤様のところに住み込みで弟子入りすることになった。
白澤様は、この桃源郷の管理者であり漢方の権威でもある中国の神獣。
けれど、そんな師匠の下で俺が初めて学んだのは、漢方の知識でも道徳のなんたるかでもなく……酔っ払いの世話とそのあしらい方だった。


*第参話*


「我不喝……我以後不喝酒、清原涼我。
 我不喝我不喝我不喝……」

百が洗っている食器の音に紛れて、後ろのトイレからからぶつぶつと念仏のような中国語が聞こえてくる。小声なのではっきりと聞き取ることはできないが、おそらくまた水洗便器を拝み倒してできない誓いを掲げ、赦しを乞うているのだろう。
そういえば、人間は神や仏に赦しを乞うが、神様は一体誰にそれを聞き届けてもらうのだろうか。
そんなどうでもいい百の疑問は、背後から上がった一際大きな呻き声によって中断された。
酒を鱈腹飲んで翌日二日酔いになるのは白澤の勝手だが、ほぼ毎朝トイレで儀式を行うのはやめて欲しい。あの声と胃の内容物が逆流する音を聞いていると、こちらまで胸が悪くなってくる。
「はぁ……本当、毎回懲りずに良く飲みますよね」
台所のテーブルには、いくつもの酒瓶が転がっている。どうやらお師匠様は昨晩、紹興酒と養命酒、その他諸々をチャンポンされたようだ。全然『養命』できていない。

「桃タロー君……黄連湯作って……」
「はいはい」

漸く落ち着いたのか、真っ白い顔をした白澤がトイレから顔を出す。それに適当な返事をしながら、食器を洗い終わった手を拭いて、百は鍋を取り出した。
『黄連湯』は二日酔いに効く漢方の一つで、白澤に一番最初に教えて貰った煎じ薬だ。もうそらで作れるほど馴染のもので、師匠にもお墨付きを貰っている。全てはこの、毎日飲んだくれる熱烈なリピーターのお陰ではあるのだけれど、正直有難みは全くない。
「はい、どうぞ」
「うん。ありがとー、桃タロー君……」
「あの……さっきから何なんですか、その『タオタロー君』って」
「いいじゃない『桃タロー君』。あ、タオっていうのは中国語で桃ね。
 タローは日本ぽいから好きなの僕」
「自由だなぁ……まぁ、別にいいですけど」
黄連湯を啜りながら目を細めてそう言う白澤は、何処までもマイペースだ。

「あ゛ぁー、だるい……。
 桃タロー君、今日は休もう……」
「何馬鹿言ってんですか。さっさと顔洗って身支度してきてください」
「う゛ー……」

眠気と酔い覚ましに冷凍庫から取り出したアイスノンを頭に乗せてやるが、少し身じろぎするだけで、テーブルに突っ伏したまま動き出す気配はない。
「この人、日頃の不摂生が原因で薬に詳しくなったんじゃ……」
「違うよ……」
「えっ、違うんですか」
意外だ。
このロクデナシのことだから、てっきりそうだと思ったのだけれど。
その知識は、やはり森羅万象に通じる神獣たる性なのか―――……。

「毎晩女の子と遊んでたら体力が持たなくて。
 『元気になる薬』作りまくってたら、別件で色々できた」
「最低だ、この男……」

ほんの少しでも見直しかけた自分が馬鹿だった。
進歩というのは欲から生まれるのだ、なんて尤もらしい御託を並べる女ったらしを放置して、百は先輩である兎たちと店開きの準備を始めるのだった。


***


「……イヤ、ホント。
 怖いよね、女の子って……」
「俺はアンタの節操がなさすぎるところの方が怖いです。
 はぁ……シャチホコみたいになってますよ」
ある日の朝、百が桃園の世話と仙桃の収穫をして極楽満月に帰ってくると、師匠から一風変わった、実にアクロバティックな出迎えを受けた。
百がここに来てから一体何人目の女性だろう。あまりの酷さと手の早さに、片手を超えた辺りから数えるのは止めた。
痴情の縺れに巻き込まれた所為で痛む頬を押さえながら助け起こすと、白澤はお礼を言って百が獲って来た仙桃を眺め始める。去って行った女性のことはもう忘れてしまったのか、後を追うどころか振り返りもしない。

「可笑しいよね、兎は年中発情してても誰も怒らないのに。
 僕だと女の子は怒るんだ」
「いや、何一つ可笑しなことはないです」

その内後ろから刺されるんじゃなかろうか、この男。
けろりとした顔で平然とクズ発言をかます白澤に、百は呆れる。
「ごめんごめん、怪我は?」
「あ、大丈夫です。すみません」
「そう。なら良かった。
 ところでこの葉っぱ、何だか分かる?」
白澤は百の頭巾にひっついていたらしいその葉を取ると、百にそう問いかける。
「え?えーっと……」
こんな風に、彼の講義は突然始まる。
示された葉を見つめながら、百は慌てて懐からメモを取り出した。

「―――あ、分かった!ホオズキですよね」
「そう!」

百の解答に嬉しそうに相槌を打つと、白澤は続けてそれについて詳しく説明していく。
主な薬効や各国での名称、薬として使える部位、副作用、その他豆知識。その膨大な情報をメモに取りつつ必死に頭に叩き込む。
まだ聞き慣れない言葉や専門用語も沢山あるけれど、白澤のこういう話を聞くのはとても面白い。
知らないことを理解して身につけていくこと自体が好きというのもあるが、何より師の教え方が巧いのだろうと思う。彼は教科書通りには決して話さない。百の反応を見て、適宜豆知識的な雑談を交え、そこからさらに話を掘り下げていく。そして何より、話す当人が終始楽しそうに語るから退屈しないのだ。
「根っこは生薬だけど、毒でもある。
 昔遊女が堕胎薬として使用していたこともあるんだ。妊婦さんは食べちゃダメ」
「―――その通り。アルカロイド及びヒストニンを含みますので、流産の恐れがあります」
「そうそう……」
「え……?」
聞き覚えのある低いバリトン。
講義に割って入ってきた声に、百と白澤は驚き振り返る。

「もっとも貴方は、鱈腹食って内蔵出るくらい腹下せば良いのです」
「伏せろ!コイツは猛毒だ!!!」

滅多なことでは動じない師匠の絶叫が響く。
そこには何故か、植物の名を答えた時に一瞬頭に過ぎった人物―――閻魔大王第一補佐官が立っていた。
 


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