籠屋短編 | ナノ

仕置き



 宵ノ進は若くしてその手腕と味を広めた籠屋の板前である。店主の虎雄に引っ付いて料理を習い、それなりにできるようになった頃には教えを請いに頭を垂れ他の板前や料理長らと交流し、恐ろしく呑み込みの良い彼は二年という早さで厨房に立つようになった。
 籠屋は料亭として新参の、若い店である。
 何を頼んでも美味しい、噂以上だと持て囃されるその店で、ある時期御膳がひっくり返されることが増えた。
 決まって客はおらず、帰った場に報せを聞いた板前が青い顔をして飛んでくる、というものである。

 箸をつけても一口、或いは全く手をつけずに膳をひっくり返され事情を知る者もいない。受付で名前は控えてあれど、偽名であろうと頭の隅が囁くのを振り払って膳や汚れた畳を片付けるのだが、副板前の香炉にこれは堪えた。
 食べてすらもらえない──気丈な彼女が臥せたのである。
 店主は引きずり出すと一言、しばらく任せていただけませんかと留めたのが宵ノ進、その金の眼は何を考えているのやら、凪いでいた。

 多忙な籠屋の中で、その後も何度かあったのだが多忙ゆえに誰もがその場に居合わすことができない。
 店主の虎雄が出てしまえばもう理由を聞くどころではない。敬愛する店主の、容赦のない断罪を止める術など持ち合わせてはいない。
 食材から係わるあらゆる人々や費やした日々への侮辱、店への、皆への、店主への。
 ただただ静かに降り募り、機嫌のすこぶる悪い幼馴染を抑え、ある日の夜遅く、自ら膳を運び戻りの廊下を歩いていると使い慣れた陶器のかち合う音を拾ったのである。
 足音の判別がつかないのだろう。耳を立てていようが衣擦れさえ拾えぬよう歩く宵ノ進に、気が付く者など限られている。

 ひっくり返された膳と、仰天したまま貼り付いた客の顔を前に宵ノ進は訊いた。

「教えてくださいませんか、わたくしは聞きとうございます」

 めったに姿を見せない板前の金の眼は変わらず凪いでいる。声音もやわらか、纏う良い香り。

 相手は名高い料亭で料理を食べずにひっくり返し逃げる遊びが流行っている、と言う。
 知らん顔をしてお代を済ませ、店を出るや大急ぎで逃げるのだという。

「お楽しみいただけましたでしょうか。そうです、御客様。遊びにいらしたのでしょう? この宵ノ進と、遊んでくださいまし。この籠屋から御客様が逃げ切れたなら、わたくしは何も見ておらぬと申しましょう。逃げ切れなかったら、わたくし、貴方にお伝えしとうことがございます」

 凪いだ眼のまま笑う宵ノ進を前に、客は何も言わずに逃げた。その姿に目を細めて笑った宵ノ進は、客と反対側の廊下を歩き出す。


 客はばたばたと夜の廊下を駆け、宴席で賑わう障子越しの灯りに照らされながら出口へと急ぐ。美しく調えられた庭を右手に、ひたすらに走る。角を曲がり、そのまま行けば受付が見え、玄関へと通じる。
 けれども暗い廊下が続いていた。真っ直ぐに伸び、一切の音がない。

「うふふ、どちらにおいででしょうか」

 軽やかな声が後ろから聞こえる。ゆっくりと近寄ってくる気配がする。
 客は暗い一本道を走る。どれ程走ったであろうか、両側に障子が現れ、また賑やかな宴席の声と灯りが客を照らす。もうどこでもいいと、宴席の障子へ手をかけたが、開かない。
 力任せに叩いても、穴が開くわけでもなく。
 ただただ宴席の笑い声が、廊下に響き渡っている。
 左右を見ればどちらも廊下の曲がり角、奥に立ててある扉に描かれた花の名は何であっただろうか、様々な花が天から散り下へと落ちてゆく様は、美しいようで、一度客の息を止めた。
 天から降る花は、握り潰されていたのである。

 宴席の賑やかな声が両隣から聞こえる。始終笑って、酔っぱらった客が酒瓶を持ちながら機嫌良く歩き回る影が映る。
 客の背後から、するりと両腕が回される。耳元で、愉しげに囁く声が聞こえる。

「なりませんよ、足を止めては。もっと遊んでくださいな、貴方のお顔もあのようにしたい。声の枯れるまで、息のつぐ間もなく、貴方に貶された生命ののように、貴方を扱いとうございます。──いいえ、建前なのです。わたくしは、貴方がどのようなことを仰っても、帰す気などございません。貴方に触れたくもございません。寒いでしょう? 芯まで凍えて、震えていてくださいまし。縄ならば、たくさん御用意してございます。なれど、わたくしがよいというまで、貴方は目を閉じれぬのです。今更謝るのですか? わたくし、申し上げましたでしょう?」



 廊下で膝をついたまま目を見開いて放心している客を前に、宵ノ進はただただ見下ろす。
 これはきっとこのまま担架で運ばれて、忘れた頃に動けるようになるのだろうか。それまで同じ繰り返しを見て、またやってくるだろうか。硬直した目は開いたまま、閉じることはない。見開いたまま見ていろ。同じ夢を、延々と。


「宵、──帰してやれ……」

 珍しく、息を切らせた大瑠璃が着物を引っ張っていた。
 あなた、あんまり走るといけないと、言われていますでしょうに。

「わたくし、向こうの遊びとやらが収まるまで、帰す気などございません」
「……宵、頼むから。そのままでは死んでしまう。もう誰も、死んでほしくない」

 変わらずに息を切らせた大瑠璃は、握った着物を離さない。

「あなたも、虎雄様も、あんなに怒っていたのに。許してしまわれる」
「宵、宵もそうなんだろうが。この場所は、そういうところだって──どこかで許さなければ、引き寄せ刀と、同じになってしまう」
「……ねえ、三日。三日くださいな。このような悪戯をする方々を回って、同じ夢を見せたい」
「宵は傾きすぎなんだ。……お願い」


 延々と続いた会話が止んだのは宴席が静まる頃だった。
 硬直していた客がはっと跳ね上がると、壁に背を預け膝を抱えた着物が二人、片方はふてくされた半眼で睨み、もう片方の黒髪は疲れきった顔をしている。

「早く帰れ。こんなこと、二度とするな。流行らせてる連中にも伝えろ。こいつ、めちゃくちゃ怒ってるぞ」
「……二度と来るな」

 普段の丁寧さ等はどこへやら、睨んだまま呟いた宵ノ進に、客は小さく声を上げ逃げていった。

「ああ〜……もう、宵の説得が一番大変なんだよ……」
「わたくし、説得などされておりませぬ」
「もーそのままむくれてろ。愚痴は聞くから。珍しい洋菓子でも見に行こう。香炉も一緒に。きっと喜ぶよ」
「……香炉が臥せっているのに、どうしてあのかたは笑っていられるのだろうと思った」
「だからって殺しちゃダメだろうが。仕置きは度が過ぎたらいかん。何でもほどほどに、くらいがちょうどいい」
「わたくし、さくさくした食感の洋菓子が食べとうございます」
「あああれか、ミルフィーユか。よしよし、もう籠屋の全員で、美味しいお店に行って食べよう。ああ、疲れた……」
「あんた達、今日の片付けはいいからとっとと寝なさい」

 同時に顔を上げれば巨体の虎雄に二人とも担がれていた。驚いて小さく声を上げる宵ノ進と、もう好きにしてくれという体で無抵抗にぶら下がる大瑠璃に、虎雄は一度ため息をつくと両耳からああだこうだと聞きながら、うちの坊やたちはまだまだ手がかかるわねえと少し笑ってやるのである。





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