籠屋本編 | ナノ

二.花と貴方へ
62.靄



「鶴ちゃんシュバッて帰ってきてねー!」

 靄の立ち込める中で朝日が構わずに手を振っていた。ちらりちらりと靄から覗く金赤の振袖に、顔が見えぬものかと目を凝らすも足元までまとわりつく白い靄は籠屋の門前をも覆い、両脇に提げられた提灯の灯りが淡く色を添える他に輪郭を辿る術はなかった。

「いってきます」

 羽鶴は応えるも、数歩先の地べたを残して辺りが一面白い靄という朝は雲の中にでもいるようで、掴みようのない現状と断じてこなかった休校の連絡に前を向きながら顔をしかめた。
 なぜこのような天候で出向くのか甚だ疑問であるが、柊町は時折靄のかかる町だと父から聞かされていたことはある。体験するのは初めてながら、足元しか見えぬ白い光景は籠屋の廊下に比べればたいしたことはない。数歩歩き振り向けば、籠屋の提灯の灯りも朝日の派手な振袖の欠片も見えなくなっていた。
 幻であったかのような、妙な心地にさせられる。けれども持つ鞄の中には香炉が持たせた弁当箱が、雨麟が悪戯に笑って入れて結んだピンク色のウサギのぬいぐるみが、いつの間にか移ってしまった籠屋に漂う控え目に擽る花のような香が、羽鶴の足を進める。
 おかえりを言うから帰ってきてねという朝日、いつの間にか出迎える香炉、走ってくる雨麟、静かにやんわり迎える白鈴と宵ノ進、ひょっこり現れては気まぐれにおかえりという大瑠璃。なぜだか長い間籠屋にいるような気がした。

(静かだ)

 僕はその静けさに慣れている。羽鶴の靴は靄を踏む。本来足元を避けて離れていく靄を、踏む。
 ふかふかと雲の上のよう、歩くという感覚を掬われる。静けさは好ましい。
 だんだんと勘で歩いていた道から逸れているような気がした。寧ろこの靄で無事校舎にたどり着けるものがあるだろうかとさえ思える。いずれ晴れるだろう、そのように思ってのことであろうか、けれども網はふとした拍子に捕らえた潜れるはずのない魚を逃がす。空の網を見たが最後、同じ魚を捕らえるなどどれだけ気の長いことであろうか。

(もう少し、寝ていたかったな)

 籠屋はいい匂いがする。いてもいいのだという匂いがする。だからほんの少し甘えて、顔を向けても受け入れてくれる彼らのいる場所に長く居たかった。
 足は坂を上っていた。学校までは下りであるにも関わらず、緩い緩い傾斜を上っている。

(どうしよう、戻れない)

 宵ノ進を急かしてでも御守りをもらってくればよかったろうか、切れた紐を繋ぐ間はあるまい、引き寄せ刀は店主が払ったという。自分もその場にいたのだから、確かに。ともすれば、これはなんなのだろう。
 足は止まらない。少しずつ早足に、意思を靄へ放るようにして、だんだんと四肢から力が抜けていく。
 するりと指から落ちそうになった鞄ごと、羽鶴の手が握られた。
 驚いてそちらを向くと、つばの広い帽子が髪に当たり、薄い唇が吊り上げられている。洋装の、淡い質素なワンピースが靄と羽鶴を切り離す。

「鶴は朝から迷子な訳だ」
「大瑠璃? なにやってんの、お前」

 黒い眼と黒い髪は白い靄を叩き斬るほどにくっきりと、存在はここだと異論の一切を認めないように映った。

「ものすごく眠いのだけれど朝から散歩」
「寝てろよ僕は学校あるんだよ」
「こっちは裏路地、学校はあっち。お休みだといいのにね、ついでだから見に行ったげるよ」
「お前な……女装のうえに学校ふらつく気か。人目につきたくないんじゃないのかよ」
「知れども行ったことがないからね、この靄じゃそう集まらんよ」
「人が少ない方が大瑠璃みたいなやつがいたら目立つと思うけど。つーか籠屋は柊町では有名なお食事処なんだろ? 大瑠璃やら宵ノ進やら、ほいほい出掛けて捕まったらどうすんだ」
「はあ、何の心配なの鶴は。この大瑠璃が? 誰かに捕まるなんてつまらないことになりはしないかと?」
「お前それさえなければ物凄く美人だと思うんだ」
「誉め言葉誉め言葉」
「なんだよ大瑠璃、今日は店長のナントカ会の準備じゃないのかよ、貸し切りの支度みんなやってんだろ? 抜け出してきていいのかよもー!!」
「そうそう虎雄の知り合いばかりがくるからね、受付は宵なんだよ。だから鈴はお休みだし、というか呼ばれても出ないけど」
「大瑠璃の手伝う気のなさは凄まじいなあの真面目な宵ノ進が何で許してんだ」
「鶴はこの大瑠璃をなんだと思っているの。ほら鶴、学校。着いたよ」
「は、お前行ったことないって……着いても靄だらけですけど?!」
「だろうねほら玄関入った入った。へえ面白味のない靴箱だね」
「貶すことにかけては大瑠璃の前に出るやつはいるのだろうか」
「はい靴脱いで。じゃあね鶴、お昼食べたら帰ろうね」
「お前土足……!! なにその可愛げなピンクのヒール高い靴!!」

 するりと大瑠璃は土足で校舎に上がり込んだままいなくなった。
 たどり着くまでに鞄から離れそうになる指を包むようにしてずっと手が握られていたのを知らぬまま、羽鶴は教室へと向かう。




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