すうっと大きく息を吸い込んで、一瞬だけ止める。
吐き出すのと同時に言葉を紡ごうと試みる。が、布都彦の努力も虚しく、彼の声は柔らかな風の中へと溶けていってしまった。

(やはり……私には無理なのではないだろうか?)

大切に想う女性が望んでいるとはいえ、彼女を大切に想うからこそ口に出来ないたった一言。さっきから何度となく練習を繰り返しているにも係わらず、それは一向に形となる事ないのだ。
愛したひとの期待に応えられない己が不甲斐なく、布都彦は悔しそうに下唇を噛み締める。それでもせめて唇の動きくらいでそれを表してみようと、深呼吸を三度繰り返したあとで一音目の形に口角を持ち上げた。……と。

「布都彦、何やってるの?」

「ちひ……っ!?」

不意に背後から投げかけられた声のせいで、それは布都彦の口から飛び出してしまった。

「布都彦?」

「あ、いえっ、その……陛下っ。このような場所で何を……っ!?」

わざとらしい咳ばらいをして、布都彦は何とか平静を保とうとしてみる。

(き、聞こえてしまっただろうか……?)

千尋の耳にそれが届いてしまったなど、考えただけで胸がドキドキと高鳴るのを抑えることが出来ない。
俯き気味になる事で、かぁっと赤く染まっているであろう頬を隠そうと努力してみるが、続く千尋の一言によって、彼の頑張りは脆く崩れ去ってしまった。

「ねぇ、布都彦。さっきのって……」

「ななな、何でもありませんっ。私は何も……っ!」

「私の聞き間違いじゃないよね? 確かに聞こえたもの。その……私の名前、呼んでくれたんだって」

違う。と反射的に否定してしまいそうになる。けれども千尋が、目の前にいる最愛の女性が蕩けそうなくらいに甘い微笑みを浮かべ、嬉しいと言ってくれたから。
気恥ずかしさより、胸一杯にこみ上がってきた暖かな感情の方が勝った布都彦は、差し伸べた腕にそっと千尋を閉じ込める。

そして貝殻のような耳朶に唇を寄せ、彼女だけに伝わるように小さなちいさな声で、今日の半日を費やして練習してきた大切な一言を口にした。

「千尋……」

あれだけ躊躇われていた言葉が、囁きとなって微かに千尋の髪を揺らした。

「……、はい」

声と共に伝染してしまったのだろうか? 返事とともに恋人を見上げた千尋の顔は、布都彦以上に真っ赤に熟れた色に染まっていた。


───秋から冬へと、大地が衣替えをする秋の午後。
見交わす眼差しに沢山の愛情を秘め、冷たくなってきた風にも負けない温もりに包まれた恋人達は、やがてどちらからともなくそっと唇を重ね合わせた……。



end.

<後書き>
しょっぱつはやはり、照れてれ甘々がいいかなーっと。
布都彦は名前呼ぶのも躊躇いそーですよね( ̄▽ ̄〃)



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