折原臨也は苛立っていた。 まずは第一に暑い。出勤したときには雨でも降りそうな曇天で、空を見上げた身体を包むコートも役目を存分に果たし冷たい風から守ってくれていた。 しかし、どうだ。職場に着いて一時間もしないうちに雲はどこかへ行ってしまい、代わりに照りつける太陽がアスファルトを熱し足元から熱気が昇ってくる。 室内にいるというのに熱気にあてられているのは窓が全開だからで、窓が全開なのは機械で吸いきれない粉塵が篭るのを嫌い、朝一番で開けたのをそのままにしてるからだ。そして窓を閉めればいいのにしないのは、スイッチを入れても稼働しない空調のせいで。 一度イライラすると全てがその対象になるものだ。雇い主には空調の文句はすでに言ったが、すぐに直るわけもなく。 顔半分を覆うマスクも暑さに拍車をかけ、つい手元が乱雑になってしまうのも仕方ないことだった。 「ちっ」 それでも堪えて黙々と作業をしていたところに運ばれてきた最大級のイライラの原因が視界に入ると、額を汗がツーと伝い落ちて限界を知らせる。 ぷつん、と、決して太くはないと自覚のある我慢を司る神経が切れたのがわかった。 その原因の物体を鷲掴みし、診察室に続くドアを蹴り飛ばす勢いで開けると、仕草とは反対に静かな底冷えのする声で尋ねる。 「この石膏模型作ったの、誰?」 普段は静かなオルゴール曲のBGMが流れる室内なだけあって、バン!という派手な音に、その場にいた全員が臨也の方を向いた。 その中の一人、この春から雇った若い衛生士があからさまに顔色を変えていることに臨也が気付かないわけもなく。 「君さあ、ここにいるってことは資格持ってるんだよね?何勉強してきたの?むしろ勉強しすぎで実技は全然できませんってタイプ?そういう子、いるけど、結局現場で働くのに必要なのは技術。これ。印象のとり方からして酷いんだけど。練り方間違って、その印象で型とって、肝心の模型に巣まで入ってて全部使い物にならないよ?いくら俺でもこの模型からは何もつくれないなあ。マージンだって欠けてるし。それ以前にアルジネートがすぐ収縮するからって俺が石膏流すから触らないでくれる?ていうか、なんでこんな子雇ったのさ、新羅」 「臨也……わかった、明日にはエアコン直すから」 「午後には直すくらい言いなよ」 やれやれ、と肩を竦める新羅も泣きながら立ちつくしている女を何もフォローしない時点で同罪だ。 仮にも雇い主でこの歯科医院の経営者であり医師という立場だというのに、周りの衛生士たちのことは何も考えてないのが丸わかり。頭の中は、この医院に材料の配達などを一手に引き受けている同居人のことでほぼ占められているのだろう。患者のことだって二の次なのは間違いない。 空気に耐えられなくなったのか、とうとうその場から走って立ち去った新人を、他の同僚たちは明日は我が身と見て見ぬふりをしていた。 こんな医師でも腕がいいと評判で、待合室は常に患者で満員。つまり、給料も他の個人医院に比べれば随分と高く、他の従業員は胃に悪すぎる医師と技工士タッグの性格は我慢するしかないのだ。 「じゃあ午後から技工室に業者入れるよ。急だからいつものとこは捕まらないかもしれないけど」 「直ればなんだっていいよ。それとこの模型、本当に使えないから。誰のかわかんないけどもう一回印象からやり直しだね」 「見ればわかるよ。こっちで説明しておくから」 「じゃよろしく。あと今日はエアコン直るまで仕事しなーい」 「急ぎのやつは終わってるんだろ?別にいいよ」 こんな会話が診療時間中の診察室でまかり通るあたり、通院患者もよく心得ているのか文句のひとつも上がらない。 実際、とにかく目的のところまで治療する手を止めない新羅は、会話中も削り続けていたので患者からしたら下手に抗議の声を出したら舌まで削られるとでも思ったのだろう。 「結局戻るんだね」 含み笑いで言われ、臨也は暑いと愚痴を飛ばしていた当の技工室に向けた足を止めずに、こちらも薄く笑った。 「あそこにしかないんだよ」 何が、とは言われずとも新羅にはよくわかっていたし、涼しい休憩室にでも行けば?などと無粋なことを言うつもりもない。 さっきとは違い静かに閉まった技工室のドアの向こうの友人の不快指数を少しでも下げてやろうかな、と、事務に業者への電話を頼む。早めにという希望を飲んで、最初からいつもの業者ではなく知り合いのところに融通をきかせてもらおうと番号を伝えた。 暑くて暑くて仕方ないと感じている部屋の中で冷えた麦茶を飲んで暫く文字通りお茶を濁す。 締め切りの近い技工物は全て終えていて、毎日新たな仕事は増えるにしても、臨也の技工技術なら少しくらい溜めこんだところで何の問題もない。スピードと正確さが求められる歯科技工において、臨也はその若さでは飛び抜けていた。 小一時間ほどのんびりしてから、使い慣れたアルコールランプに火を灯す。その揺らめきが何故かいつも臨也の体感温度を逆に下げてくれる。 歯科技工は世間で言う銀歯や義歯、歯科矯正装置の作成などが挙げられるが、その中でも臨也は総義歯が好きだった。 総義歯の作成が好き、というより歯の配列が好きなのだ。部分義歯とは違い、角度やカーブを計算しながら全てを作るあの作業が。 仕事の合間に自分の好みの模型を使って総義歯を作るのは完全な趣味だ。本当は歯も陶材でひとつひとつ色味も調整して作りたいところだが、材料の値段とさすがにそこまでの時間は取れないので人工歯で我慢している。 あらかじめ作っておいているベースプレートにワックスで顎堤を作り咬合器にセットする。ここまでは準備も同然で本番はここからだ。 個人的に取り寄せている人工歯をケースから取り出し、中切歯から配列しようとした、その時。 「ここでいいのか?」 低めの声と同時、少し前の臨也の行いを踏襲するかのように派手な音を立ててドアが開いた。 その衝撃と開いた窓に通り抜けた風圧と、臨也にしては珍しく純粋な驚きで手元が狂い、熱で溶かしたワックスに思いっきり人工歯をぶっ刺したまま固まる。 無理もない。この部屋の主ともいえる臨也を知ってて技工室に入ってくる者は少なかった。それが例え衛生士だとしても、印象や模型を届けるのすら新羅に任せて近寄らない。 その新羅の「そう、よろしくねー」という暢気な声だけが部屋に届いてドアは閉まった。 「……誰?」 第一印象は背が高いな、の一言に尽きる。 臨也だって決して低くはない身長だというのに、立っても見上げなければならないことはなかなかない。見上げた上から下へ順に視線で辿れば、今時珍しい金髪にそれを色濃くした風合いの瞳とぶつかった。 じろじろと値踏みするように見られて機嫌を損ねたのか、眉尻を釣り上げたその男は端的に用件のみを話しだす。 「や、エアコンの修理って……聞いてねえのか?」 「それは聞いてるけど。君、誰?」 「新羅に頼まれてきた、電気屋」 臨也の口ぶりに戸惑いつつも答えた男が新羅の名前を口にしたことで、新羅の友人かと推測する。よほど親しくもなければ、あの変人を下の名前で呼ぶ者はそういない。 というか、友人なんてものがあの男に存在していた事実も驚きだが。 「それはまた、すいぶん早かったね」 「なあ。もう直していいか?」 「どうぞ?」 居心地悪げにそわそわと身体を揺すりながら聞いてくるのが可笑しくて、自然と笑いながら促すと、早速ガチャガチャと工具箱から何やら取り出し窓際にあるエアコンに向かう。 無骨な指がドライバーを操るのを近くで見ようと──むしろその指の持ち主に興味が湧き、横の窓の桟に腰を預けまたじーっと見上げた。 湿気混じりのむわっとした熱気が項を撫でていく不快感も、目の前の金髪を眺めることであまり感じない。 しかし、見事に金色だ。室内なので翳りに埋もれてしまっているが、一歩外に出れば陽光を反射してキラキラと無駄に輝きそうだ。新羅の友人だろうし、年齢も同じくらいだろう。 最近の子は臨也の時代と違い、縦に無駄に伸びてる印象があるけれど、この男は同年代にしては肉付きは薄いものの規格外に背が高い。これだけでも否応なく目立つのは間違いないのに、顔もいいときてる。 標準よりやや色素の薄い瞳の色は、金髪や身長と相まって日本人離れした外見を際立たせていた。 それこそ穴があきそうなほど無遠慮に観察された相手は、エアコンのカバー部分をガコッと外すと眉を寄せたまま実に嫌そうな顔でこちらを見た。 「なんだよ手前」 「てめえ、じゃないよ。折原臨也」 「……いざや?」 口に出した響きで漢字変換できてないのがわかる。 「そう。君は?」 「平和島、静雄」 また、くしゃっと顔を顰める。名前を言ってるだけなのに何がそんなに気に障るのか、外見の割に生真面目そうな男は終始仏頂面だ。 もちろん臨也は全く気にしない。 「シズちゃん、お茶でもどう?」 「は?」 「だから、お茶でもどう?」 「じゃなくて。なんだシズちゃんて」 ん?と指差すと今度こそ会ってから一番といえる渋面に取って変わる。 そんなに眉間に力を入れっぱなしで疲れないのか、と思ってまじまじと見ていたら、ギリっと睨んだ静雄が大きく口を開いて。 「ああ!?てめっ……!」 その瞬間、全力で静雄の両肩を掴んでいた。臨也の指は爪を立てて食い込み、間接がギシギシと音を立てる。それだけの力が加えられているにも関わらず痛みも感じないのか、至近距離にぐっと顔を寄せた臨也に驚いて詰められた距離を同じだけ後方に下がった。 それでもぐいぐい迫る臨也にとうとう背中が壁にぶつかる。 長く生え揃った睫毛の一本一本まで確認できてしまう近さに何故か顔を赤らめた静雄が、いいかげんにしろ!と押しやるが、乱暴に手は出せないのか結局数センチの距離でまばたきもせずに静雄を見上げた。 「……シズちゃん」 「んだよ!近えよ!」 苦し紛れに怒鳴る静雄に対して臨也の目はキラキラと、まさに漫画の瞳の中に星が見えるといった状態で。 「型採らせて!」 「…………ああ?」 「型だよ、型!歯列の型!上も下も全部ね!うわー、俺、こんな理想の歯並び初めてなんだけど!すごい左右対称だねえ!あ、でもちょっと歯茎が……煙草吸ってる?ヤニ汚れはほとんどないのになあ。あとでいい歯磨き粉あげるから今度からそれ使ってね。最低でも一回10分以上、力はあまり入れないで優しく磨いて。できれば朝昼晩……」 「ちょっと待て!」 「何?もしかして歯磨き粉はお子様用の甘いのしか使えないとか言わないよね?あるにはあるけどシズちゃんもいい大人なんだからちゃんとしたの使った方がいいよ。当然フッ素入りのやつね」 「誰がんなこと言った!殺すぞ!」 そうこう言う間にも、うっとりと僅かに頬まで染めながら静雄の口の中を凝視してしまう。 臨也は今までありとあらゆる口腔模型を見てきた。もちろん、実際に患者の口腔内も観察はしてきたが、技工士は患者の口腔内に手を触れることはNGなので専ら相手にしてきたのは硬石膏で作られた模型だった。 歪なものから綺麗なものまで様々だったが、人それぞれ特徴があるそれら全てを愛していた。 臨也はこの仕事が天職だと思っている。だから純粋に感動したのだ。 「あー!ちょっとシズちゃん!口閉じないで!」 「ぜってえ開かねええ!」 「いいから、ね?型採らせて!」 「俺はおもちゃじゃねえっつーの!」 顔を逸らし続ける静雄の正面に回って嬉しそうにお願いする臨也。 どちらも頬を赤く染め、ぎゃあぎゃあと言い争ってるので、いつの間にかドアに凭れて見物してる新羅にも気付かない。 「エアコンの修理はまだなのかなあ……」 とっくに午前の診察は終了、昼休みに入っていて。太陽はますます高く、じりじりと空気を焦がす。 技工室の熱気は二人のエキサイトっぷりにますます上がり、床に転がされたままのエアコンカバーだけが元の場所に戻るのを待ちわびていた。 ←back |