言い訳をさせてもらえるなら、静雄が悪いと言ってやりたい。
 いつだったか、携帯灰皿を忘れて街中で他に灰皿も探せず苛立っていたこの男が「とりあえず殴らせろ」と絡んできたのが始まりだった。
 ごきごきと、ありえない音を立てて指を鳴らす鬼の形相に久々に捕まり、ボディに一発、顔面に一発、直撃は避けて逃げたものの青痣と出血は避けられなかったのだ。
 ほうほうの体で事務所に戻り、波江に言われた「……汚い顔」にプライドを傷つけられ、あんな理由で殴られるくらいならと安物の携帯灰皿を常にポケットに忍ばせるようにして。
 ちなみに眼鏡ケースも全く同じ理由なのが、臨也の学習能力も鈍っていたと言わざるをえない。
 それから、睨みあって静雄が煙草を口から外せば臨也が灰皿を差し出す、という構図が出来上がったわけで。

「誰も持ってないなんて言ってねえけどな」
「はい?」
「俺だって毎回忘れてるわけじゃねえよ、灰皿」
 そう言えばそうだ。
 先手を打とうとする余り、静雄は持ってないと断定していた。その前から外見に似合わず気にして持ち歩いていたくらいなのだ。むしろ、忘れた方が偶然だったはずで。
「手前がよ、そーゆーことすんの。なんつーか……変な気分になる」
 眩しいと感じていた光が遮られ、嵌っていた思考から抜け出せば随分近くに静雄の顔があって、ぎょっとした。
 いつの間にか片腕で扉に近い方の壁を塞ぐように阻まれていて、もう片方の手が臨也のそんなに長くはない髪を戯れに引っ張っている。つんつんと何かを尋ねるように動く指は案外繊細に触れてきて、擽ったさに逃げ道もないのに身を捩った。
 息を吸い込んだまま吐き出すことを忘れ、詰まった呼吸に消えたと思ったアルコールが浸透していく。
 そーゆーことって、と言ったつもりが、吐き出せたのは酒臭い震えた吐息だけで。
「灰皿持ち歩いたりとかよ、さっきみたいなのされると目の前ちょろちょろしててもムカつかねーんだよなあ」
 髪をいたずらに撫でていた指が今度は前触れもなく臨也の唇をなぞり、かさついた感触に自分の唇も乾いていると知らされた。
 熱心に撫で摩られるうちに、こくりと喉が鳴り、飲み込んでも飲み込んでも唾液が溢れて、それすらも唇に塗り込められる。少し力を込められただけで、くにゅりと唇に指が沈み込むのが酷くいやらしい。
 静雄の目線は唇に向いていて、伏し目がちなそれが酷く艶めいて見えた。
 そんな空気に飲まれてしまって、だんだんと唇から全身に痺れが伝わり、はふはふと変な呼吸音しか出ない。
 脳に酸素がいってない気がする、酸欠か、と舌が思わず出たところに、予想はしていたけどそれ以上の激しさで静雄の唇が塞いできた。
 ──正直、期待してなかった、と言ったら嘘になる。
 無意識に静雄に尽くしてしまっていたことを理解した身体は素直で、唇が柔らかく触れ合うともっと欲しくてたまらない。そして触れて初めて、同性であるこの男と性的な接触を違和感なく受け止めている自分に気付き肌が粟立った。
 混ざった煙草と酒の味が息苦しくて、目尻に生理的な涙が浮かぶ。
 やっぱりアルコールでふやけていたのか、粘膜を強く擦り合わせられただけで抵抗もなく簡単に気持ちは快楽に持っていかれた。
 うわ、すごい。気持ちいい。
 頭を過るのはそればかりで、唾液を啜られながら舌も一緒に食まれると、それすらも考えられなくなる。
「……は、んんっ……!」
「酒、くせ……」
 何度も吸われ、舐めしゃぶられ、唇が離れても指で舌を摘まんで愛撫されながら、どんだけ飲んでんだと耳に口を当て囁かれ腰が砕ける。
 足の力が抜けガクガクと膝が揺れ、立っているのが辛い。
「……手前が悪い。世話女房みたいなことして期待させっからよお……」
 ──ああ、こいつ俺のもんなんだなって思うじゃねーか。
 言われながら支えるように腰に当てられていた手が少し角度を変え、尻の肉を服越しに強く揉まれ、さすがに驚いた。
 昔から派手な噂が飛び交っているのは自分でもわかっていたが、本当のところ臨也には女性との経験はあっても同性と性行為に及んだことはない。それでも臨也ならともかく、そういう行為に疎そうな静雄が躊躇いもなく行動に移してくるのが期待を通り越して、少し怖い。
「シ、シズちゃん、俺とセックス、するの?」
「する」
 返しが早すぎる。耳を噛みながら喋らないでほしい。
 やる気に溢れている男をどうやってかわそうか回らない頭で考えようとしたら、唐突に携帯の着信音がコンクリートに囲まれた空間に反響した。
 その音に呆けた頭に冷や水を浴びせられた気分になり、まだ肩口に静雄の顔は乗っていたが慌てて通話ボタンを押すと、心配そうな響きで臨也の名前を呼ぶ門田の声が。
「ドタチン……あ、トイレに行っててさ、うん。……大丈夫」
 耳元で舌打ちが聞こえた。至近距離の舌打ちは相当大きく鼓膜を震わせるが、次にその鼓膜を舐められているかのように、ぐちゅりと細めた舌を耳の穴に差し入れられ変な声が、出た。
「ひ、やっ……!」
 門田の声で現実に戻された思考は一気にまた引き戻され、ぎゅう、と、目を瞑ってそれ以上声が漏れないよう耐える。
 それが面白くないのか、下がった静雄の掌が不穏な動きを見せるのに、急いで残った理性を総動員して電話口に向けて話をつけた。
「なんでもないっ…!あのさ、やっぱりちょっと酔ったみたいだから先に帰る……コートは、今度取りにいくから悪いけど持ってて」
 確か、大事な物は何も入れてないはずだ。
 不審気な様子で、それでも了承した門田との通話を切りホッとしたのも束の間、流されないうちにと静雄の袖口を掴み、くいくいと引っ張り注意をこちらに向ける。
「……んだよ」
 ぶすっとした態度を崩そうとせず、静雄がこちらを見る。その目力の強さに押されてはいけない。
 臨也の脳も身体も溶けてぐずぐずと火照りを持て余してしまっているが、最後の最後で踏ん張り、本能のみで動こうとする目の前の男をなんとかしなければ。
 だって場所が悪い。ここじゃ、落ち着けない。
「シズちゃん、なんでここに居たの?」
「……プレオープンの間だけ、ヘルプ頼まれた」
 今日は店開く前から入ってたからもう終わった。じゃなきゃ、こんなことしてねえだろ。
 ばつの悪そうに少し早口で言う静雄は、それでも離そうという気はさらさらないらしく微妙に狭まっていく腕の檻に焦り、降参の意味も込めてタップする。
「ここ、上から外出れる?」
「ああ?……別のテナントまだ入ってねえから鍵開けっぱなら出れる」
「じゃあ行こう」
 絡みついてくる腕ごと移動しようと、力が抜けた足を無理に動かした。
 反動か階段を上る途中でふらつき、斜めに傾いた臨也の腕をしっかり掴んだ静雄は、段差で今度は見上げるかたちになった欲に濡れた赤い目を捉え、今までの勢いは何だったのか躊躇いがちに尋ねてきた。
「いいのか?」
 馬鹿だなあ、と思った。
 本当に馬鹿だ。いいのかも何も、臨也はもうスイッチが入ってしまっている。
 男の性とはいえ昂った熱は発散しないと暫く燻ったままだし、何より目の前の男の色気に当てられて、今から静雄といやらしいことをするのだと考えただけで下肢がうずく。実際、下着は濡れてしまっているので、その不快感すら敏感に快楽と受け取るほど、身体も気持ちも急いていた。
 同じ気持ちでいるだろう男が、それでも「いいのか」と訊いてくるのは焦らされているもどかしさと同時に、大事に扱われている気がして満更でもない。
 湧き上がってくる感情のままに笑みを浮かべながら、挑発するように唇が触れるか触れないかギリギリのラインまで顔を近づけ尋ね返した。
「やだって言ったら、やめるの?」
 言って、ちゅ、と下唇を軽く吸った。
 ゴクリと唾を飲む音がして、やめない、と掠れた声。間近で見る静雄の目の中には、蕩けた顔をした自分しか映ってないのを確認して当たり前なのに満足する。
 掴まれた腕をそっと外すと、今度は自分から静雄の手を引いた。

 大事なことは何も口にしなかった。
 この熱が冷めて、それでも何か残ったら。
 その時は改めてこの男に捕まる覚悟を決めるしかない、そう、心の中で苦笑しながら非常口のドアを開け、夜の池袋に一歩踏み出した。



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