ありふれた表現で言うならば。
 それは月の綺麗な夜でした。



 ボロ雑巾よりも汚いかもしれない。今の自分は。
 焼けつくような腹部の痛み。結構長めの刃物で刺されたのを相手を突き飛ばし走った。強く柄を握っていた相手に対して咄嗟に身体を捻ってしまったので、少し刃先が抉るように動いたのが致命的。
 路地裏の壁に手を付いて足だけは忙しなく動かしていたが、そろそろ全身がずっしりと重くなってきた。血を吸ったコートの重みも加わり、もう限界だ。
 膝をついて、それでも這いずり進む。みっともなかろうが、無様だろうが、これは契約だ。捕まるわけにはいかない。自分の正体がバレるのもまずい。身体がどうなろうと知ったことではなかった。自己犠牲なんて美しい感情ではなく、ただただ、それが当たり前なのだ。
 街灯から遥か遠い路地裏に響いてる靴音は誰のものなのか。最早、靴で移動していない自分じゃないことだけしかわからない。近いのか、遠いのかも。耳の中はドクンドクンと大げさなくらい煩い鼓動だけが聞こえ、この音が鳴っているうちは大丈夫だという安心感を与えてくれた。

 だからこの心臓の音が止まったとき、それは自分の存在が消えるときなのだと、降った影を覚束ない目で見上げて思う。
 五感で捉えたのは金色と、目元で反射する光と、白く流れる──。



 ひっそりと佇む古い日本家屋。蔦の絡まった木塀に囲まれたその建物の入り口には同じように古いだけの郵便受けがあり、中に通じる扉は建てつけの悪そうな引き戸だ。横を見れば大きな木が、これまた道路から家を隠す位置に葉を茂らせ縁側にすっぽりと影を落としている。あえて日当たりの悪い縁側に仕立てているのは何か事情でもあるのだろうか。
 ぼんやりと視界から取り入れた情報に思いを巡らせるが、深く考えることはしなかった。今日の用事は観察ではない。それに珍しく自分の意思でここまで来たので、とりあえず先に進むことを優先する。
 扉の横には今時珍しいボタンだけの小さな呼び鈴。声を届ける機能はないので、文字通り押し黙った。中からはピンポーンという軽い音が遠く聞こえ、他の物音はない。時間に余裕があるので待ってみても、聞こえてくるのは鳥の声か自然の音ばかり。奥まった場所に建っているおかげか、車の音も聞こえない。
 もう一度押すか、と、指を伸ばして止めた。微かに床が軋む音を耳が拾って次の瞬間には眼前の扉は開き、男が立っていた。
 予想通り建てつけの悪かったらしい戸が引っかかるのを、ガコン!と派手に動かしながら開けた男は、どことなく驚いたふうに見開いた薄茶色の目をぱちりと瞬かせた。かけている野暮ったい印象の眼鏡越しでもそれくらいはわかる。
 色の抜けた金色の髪は目立つ色をしているのに、もさもさと櫛も通さず乱れて眼鏡にかかっているのがあかぬけない。背は自分よりも見上げる程度には高く、180は軽く越えているはずで、色素の薄さから日本人離れした雰囲気を持っていた。
 数週間前に男を見たときは夜だったので、明るい日の光の下で改めて窺うと幾分和らいだ雰囲気を纏っていた。あのときは自分に余裕もなかったし、それにつられたのか男も尖った口調で話していた気がする。
「お前……、もう大丈夫なのか」
 やはり驚いていたのか。
 低い、よく通る声はこの前と同じで。取り乱した自分をこの声が宥めたのだ、と思うと久しく忘れていた恥ずかしさが込み上げる。が、能面のような自分の表情には全く表れていないのだろう。男もそれに気付いた節はなかった。
 問いには頷くだけにして、ずい、と、持っていた紙袋を差し出した。その紙袋に有名な菓子店の名前を見つけ、男はさらに驚いた様子。
「なんだ、一人前にお礼もできるんだな」
 一人前とは失礼なことを言う男だ。どう見ても、さほど年齢に開きがあるようには見えない。自分と同年代くらいなのは間違いないはずだ。
 だが、礼には違いない。礼をしなければならない事態に陥ったのは不覚だったが、結果オーライだ。それにこの男に興味もあった。



 普通の神経ならば、夜に血まみれで誰かに追われ倒れている、そんな人間は見つけても無視してその場を去ることを第一に考えるだろう。自分だってそうする。見るからに厄介事を背負ってますと言わんばかりの人間に関わったら、面倒に巻き込まれるのが目に見えてるからだ。
 そんな一般論を一蹴して、自分を抱え上げた男に興味を持たないはずがない。
 持ち上げられた衝撃で刺された腹がぶつかり、また盛大に血を流したそこには気付けばきつく何かが巻かれていた。止血しようと思ったのかくるくると巻かれた白いものが赤黒く染まっているのが、覚醒して痛む箇所に視線を落として最初に目に入った物だ。
 生きている、という実感は一瞬後に強烈な痛みで思い知る。腹から裂けそうな痛み。呻き声を堪えることもできなかった。
「起きたのか」
 静かにかけられた声と同時に、視線の先に伸びてきた腕が腹部に巻かれているものを慎重な手つきで外していく。乾いて貼り付いているのか、時折べりっと引き剥がす音が続いた。目で追っているうちに、どうやらそれが元は白いマフラーだとわかる。面影もないほどに汚れてしまってはいるが。
 少しだけ、眼球をそろそろと動かし周囲を確認する。木目の天井にはそこかしこに生活臭の漂う染み。床の間なのか和室には飾り気がなく、段差の先にパッと見価値のわからない掛け軸がかけられていた。畳の上に敷かれた布団に転がされているらしく柔らかい感触はあるが、この分だとそれも流れた血で駄目にしてしまっているだろう。
 そして最終的に目の前で剥がしたマフラーをぐるぐる纏め、新聞で包んでいる男に辿り着いた。
 金髪、眼鏡、薄く読みにくい表情のアンバランスな男。血の臭いの合間から微かに煙草の香りもする。男がこの部屋の主で喫煙するのならば、部屋自体に染みついた臭いなのかもしれない。
 男はガチャガチャと手元にある箱を手荒に開け、どうやら手当てをするつもりらしい。
「応急処置しかできないぞ。知り合いの医者を呼んだけど先約があるから遅くなるってことだから」
 血が止まればなんとかなるだろ、と、痛みで痺れる腹部にガーゼが当てられ何かし始めた。応急処置、と言っていたからその通りにするのだろう。それよりも聞き捨てならない言葉が耳について、声を絞り出し鸚鵡返しに尋ねた。自分もこうして意識は保っているが、じりじりと蝕む痛みにそれがいつまで続くかわからない。つまりは暫くここは動けない。そこに医者、とは。
「……?だってお前、これ結構深いぞ?医者って言っても正規の医者じゃないから大丈夫だ。何か事情とかあんだろ」
 確かにそうだ。事情もある。しかし、その事情こそが問題で、医者に診られるなどと論外だ。当てられた手を弾き飛ばし、横になっていた身体を無理矢理起こす。熱い。ぎち、と、肉が引き攣る痛みが走るけど、唇を噛んで耐えた。
 不意をつかれ驚いてされるままになっていた男は、立ち上がろうとした自分を認めさすがに押さえ込み怒鳴る。
「っ……!動くな!また血が……」
 構っていられない。ここで身元がバレるようなことはないにしても、正規の医者じゃないということは逆に自分の顔を知っている確立が高い。この顔と──同じ顔を持つ、あの男のことを。

 これは契約だよ。ニィと頭の中で目を細める男は鏡に映したように自分と瓜二つ。意外に表情豊かな顔にさらりと流れる黒髪。違うのは自分のぎこちない表情筋を動かすことに慣れない顔が与える印象だけ。
 何が嬉しいのか男は常に笑みを浮かべながら、自分というおもちゃをとても気に入った様子で全てを教え込んだ。ただ諾々と吸収し、その通りに動く。それで良かったのだ。それが当然なのだ。

 自分の存在ほど希薄なものはないのに、それすらも消えてしまうのかと思うと、無意識に腕を振り回していた。何度か相手に当たり、眼鏡を弾き飛ばした。
 その全てを凌駕する力で封じ込められ、荒い息で上下する肩に抱き留められたときには、抵抗する気力も失われ意識が霞んでぼやけてくる。力の入らない手足を叱咤しても、血が抜け過ぎてそれすらままならない。
 そのまま、深い意識の底へ沈んでいき、最後に何か言われた言葉は聞き取れなかった。



 まだ生きてるのか、と思ったのは薬品の臭いがツンと鼻をつく白い部屋。医療用の簡易ベッドに寝かされてはいたが、ここが病室ではないことはすぐにわかった。見慣れた、光景だった。
 その場に居たのは白衣の人物。何度もお世話になった黒フレームの眼鏡をかけたその医者は、笑顔で点滴パックを取り替えていた。いつも思うのだが、この医者は白衣以外の服を持っていないのだろうか。いつ、誰が、どんな時間に呼び出そうとも白衣を着ていなかったことはない。
「あ、起きた?」
 前に目覚めたときも似たような言葉で迎えられたように思うが、そんなことより色々な疑問で当惑していた。気を失っていた間に瞬間移動してしまったわけでもあるまいし、自分の記憶が間違っていないのならば、この処置室がある医者のマンションとは離れた場所に居たはずだ。
 あの、金髪の男に拾われ──。
「珍しく月島くんから連絡をもらってね。仕事中だったから遅れちゃったけど、行ったら君が居て驚いたよ」
 月島、と唇だけ動かす。では、あの金髪の男は月島というのか。確かに月のような綺麗な金色をしていた。似合いの名前だ。
 何も言わない自分をどう思っているのか、独り言を紡ぐ白衣の医者は月島と知り合いであるらしい。それはわかった。問題は別の男だ。むしろそっちが問題だ。
 全て理解している医者はこちらが話さずとも望んだ答えを与えてくれる。色々な器具が置いてあるデスクにそっと腰を寄りかからせると、腕を組み話し出した。
「折原くんには何も言ってないよ。……いや、君が怪我をしたことは連絡した。もっとも、彼はとっくに知っていたみたいだけどね。セルティが偶然見つけて回収したって言ってはおいた」
 そんなセリフで騙されるような男か、と知らず渋面を作る。それは医者もわかっているようで、ケラケラと笑って誤魔化していた。そこで笑える神経があの男と長年付き合っていける要因だと思う。
 変わった奴は変わった奴と自然と近い関係になるらしい。
「まあまあ……折原くんから伝言。治るまで暫く何もしなくていいってさ。用事も頼まないって。ただ誰に狙われてるかわからないから、あまり出歩かない方がいいんじゃない?特に池袋とか」
 医者の忠告は何を意味しているのかすぐわかったが、ゆるゆると首を振ってそれには答えた。おや、と、形だけ驚いてすぐにしたり顔で頷く。まあ、この医者の立場からして知らないわけがない。バーテン服のあいつとも知り合いなのだから。
 あの男が嘘を吐いてることは出会ってすぐにわかった。
 シズちゃんが、シズちゃんは、シズちゃんの、何度呼べば気が済むのか、その名前を出しているときは特に表情豊かにしているのだ。殺したいほど嫌いだと。どうしたら傷つけられるか真剣に考えてるときほど、心底楽しそうに笑っていた。
 一度だけ、相手には会ったことがある。偶然でも何でもない、俺と同じ顔を見たらどんな反応するかなあ?と言われたから行ったまでだ。
 結果引き出せたのは、思いの外あっさりとした呆れ。すぐに自分に気付いたバーテン服は、事前に聞いた情報と違い標識を振り回すことも、ガードレールを引っこ抜くこともなかった。ただ、煙草の煙を細く長く吐き出して「手前も大変だな」と言っただけだ。そしてそのまま新宿の方向へ消えていった。
 あの二人に何があるのか、詳しく知ろうとは思わない。ただ自分はあの胡散臭い情報屋を生業としてる男と契約をしている。それだけだ。
 面白そうに笑っている目の前の医者も一枚噛んでいる、その契約が今の自分を構成している。
「そういえば月島くん。心配してたよ」
 月島。さっき知ったばかりの名前を聞くと、心がざわつく。心配していたと言われると、最後に強く抱き締められた感覚が蘇ってきて視線を医者から外し彷徨わせた。最後に聞きとれなかった言葉。誰にでもなく自分にくれた言葉を受け取れなかったのが何故か酷く気になった。
 見透かすように医者が思考を遮る。
「そうだね、縫ったから一週間は安静にしてて。ギリギリ内臓に損傷はないけど表面に近いところの肉が少し削げちゃってるから暫く痛いと思う」
 今は麻酔が効いているので痛みはなかった。化膿止めはきちんと飲んで、と、サイドテーブルに様々な薬が置かれる。この言い方から察するに、一週間分程度の治療費は前払いで支払われていると思っていい。金払いだけはいい男のことだ。金に執着がないとも言えるが。
 今は動くことも辛いので世話になるしかないだろう。歩ける程度まで回復したら、すぐに出て行くつもりだ。この医者の惚気話は具合を悪化させるくらいの威力を持っているのでなるべく早くここから去りたい。
「そうそうこれ。月島くんの家、ここね」
 実は苦手なこの医者のもとから早く脱出することばかり考えていたので、言葉がすぐには脳まで到達しなかった。ベッドに横になったまま傍らを見上げれば、さっきまで笑っていた医者は表情から笑みを消していた。
「私は君を治療することはできる。でも君を救うことはできない。同じように折原くんにもそれはできないんだよ」
 唐突に語り出す。
「君をそんなふうにしたのは折原くんだ。でもそれを望んだのは君だ。そしてこういう結果が待っているとわかって加担したのは私だ」
 何を今さら。自分で決めたことだ。それは一番よくわかっている。そう思ったのに、珍しい医者の強い眼光に口を挟むことができなかった。
 後悔していないのは、それだけは本当だ。自分は一度全てをなくしたのだから。
「それでも君は折原くんじゃない」
 わかっているのに言葉にされると目眩が、した。



 医者に渡された紙きれを頼りに歩いたのは数週間後。目指した場所へはすぐに辿り着いた。言われた通り、傷が楽になっても連絡も何もなかったので数週間経った今も何もすることがない。
 連絡という名の指示がない為に今日はプライベートなのだが、個人的にどこかへ足を運ぶということがなかったので、まずは服装で迷った。迷った末に、いつだったか気まぐれな情報屋がくれたトレードマークとも言えるコートと色違いのものに決める。普段は言われて全く同じコートを着用しているので、ファーが赤いだけで目には新鮮に映った。
 そして月島と呼ばれる男と再開したのが数分前。今は以前の床の間とは違い客間に通され、暖かい湯呑みを握っている。
「傷はもういいのか」
 持ってきた茶菓子を向きを揃えて置かれる。意外に神経質なのかも、と思いながら大丈夫と返した。傷は塞がった。医者が言っていたように削がれた部分の肉は醜く残ってしまっていたが、概ね良好だ。
 最初に見たのが和風の部屋だったので、なんとはなしに和菓子を選んできてしまったのは案外正解だった。出された緑茶を啜りながら思う。
 あの日当たりの悪い縁側に繋がるこの部屋は、壁一面に立て付け式の本棚があって広い空間のはずなのに圧迫感がある。無造作にバラバラと突っ込んである本は背表紙を見てもいまいち理解できない。
「それで?今日はどうした。あの情報屋の言いつけじゃないんだろう?」
 弾かれたように顔を上げた。知っているのか、と。どこまで。自分とあの男の関係を知っているのは限られた人間だけのはずだ。手を下した医者とその恋人。それと多分、バーテン服の男と。
 狼狽がありありと出てしまっていた。いつも変えることすら厭う表情は、複雑な感情が入り乱れていることだろう。
 そんな自分を眺めながらテーブルに頬杖をついた月島は、隅にあった灰皿を引き寄せるとゴソゴソと煙草を取り出し火を点けた。短い間隔で吐き出される煙は、縁側からの風に乗って部屋の至るところに飛んでいく。こうして臭いが染み付いていくんだな、と無関係なことを考えたが、そうでもしないと理性を保つのが難しい。
 月島に今言われたことは、自分の中の全てを表しているのだ。
「……俺は嘘を吐くのが仕事だ」
 混乱して何も話すことができない自分に、もったいぶって月島が言いだしたことは荒唐無稽な話でいつもなら一笑に付すような内容だった。
「世の中には嘘が溢れている。それが小さいものだろうと大きいものだろうと嘘は嘘だ。嘘はそこにあるだけならただの偽りでしかない。それを言葉にし、口に出すか文字として残すことで初めて嘘として存在することになる」
 嘘、という単語が重く圧し掛かる。こんなにも嘘と聞いていると、嘘の定義を説明しているらしいのに、その意味すらわからなくなってしまいそうだ。
「嘘を作りだすのは過程を辿れば簡単だ。その嘘が安直で見抜きやすいものであればあるほど簡単に作れる。でもそれじゃあ意味がない。満足できない人間の為に俺がいる」
 要人や歴史家や宗教家に顧客が多いのだそうだ。吐いて欲しい嘘の内容を調べ上げ、然るべきところに自然な手段で発見されるように嘘を並べる。それは文章だったり、証拠品であったり、会話だったり様々だが、とにかく『本物と世間に思わせる精度の』嘘を作る。
 月島はそれができると言う。
「俺の作る嘘は上手いぞ」
 そう言って薄く笑む男を、冴えないなどとどうして思えたのか。今となってはわからない。
 その視線に嬲られ、情けなくも湯呑みを持った手が少し震えた。静かに笑っているのに獰猛な雰囲気に呑まれてしまっている。
「お前は存在そのものが嘘だろう?すぐ気付いた。……その顔は」
 月島が続けた言葉は自分には死刑宣告にも似ていた。



 この顔は作られたものだ。
 全て、人生すら投げだすほど心も身体もボロボロになった自分を拾った情報屋が、投げだすくらいなら有効活用してみない?と誘ってきたのに、一も二もなく頷いた。綺麗な顔の妖しい笑みに縋りつきたい気分だったのも災いした。
 その日の変化は劇的で。包帯でぐるぐる巻きにされた下の顔は見えなかったが、白衣の医者とその伝手の医療関係者によって自分の顔は情報屋の折原臨也そっくりに変えられたのだ。利用と興味と。それらで繋がった関係にしては折原との間に摩擦はなかった。むしろ自分には折原臨也という存在の影として生きることに薄暗い喜びと妙な使命感まで持ち始めていたのだ。それが戻れなくなる道と知りながら。
 だけどそんな関係は長くは続かない。折原が飽きてきているのに薄々感じ始めたのはいつ頃だったか、確かバーテン服の男に会いにいった後あたりか。
 自分の存在がわからなくなる。自分が保てない。折原に必要とされないのなら、自分がこうして顔を変えてここに居る意味がない。
 ああ、自分は切羽詰まっているんだな、と、見たくもない現実に目を開けなければ、と。
 そんな足元がぐらつく中、甘い言葉をもちかける男が再度目の前に。今。



「俺がお前の居場所を作ってやる」
 その誘惑に抗うことができない。
 何もない自分が一番欲しいのは存在していることの証明だ。折原を自分に投影してそれに縋り過ごしていた。
 でもそれはもう終わる。薄々気づいているのだ。
 ──もう折原から連絡がくることはないだろう。

 満足気に茶菓子を口に含む月島を見ながら、縁側から流れてくる風を頬で感じていた。きつく握りしめすぎて白くなった指の間には、すっかり冷めてしまった湯呑みの底に茶渋が沈殿している。
 木の陰で覆われてる割に電気なしでもそこそこ明るかった室内は、日暮れの夕焼けが差し込み畳がオレンジ色に染まってやけに幻想的だ。
 この部屋にあるもの、この部屋から見た景色全てが嘘のように綺麗で、そこに嘘で作られた自分が存在するのはとても自然なことに思える。
 その嘘全てを作り出す月島も、まるで夢のように綺麗だった。
「お前、名前は?」
 いつもは折原と名乗るが、月島が聞きたいのはきっと違う名前だろう。
 これから月島の嘘に彩られて過ごすなら、ひとつくらいは本当のことを教えていてもいいかもしれない。全部、全部捨てて、自分には何も残ってないけど。
「……六臂」



 その時笑った月島の顔を。
 それから何年も傍らで過ごす間、残った腹の傷が疼く度に思い出すのを自分はまだ知らない。



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