お互い相手がいない時、というのが暗黙の了解だった。
 誘いをかけたのは臨也で、頷きはしなかったものの先に行動に移したのは静雄だ。

 女と付き合ってからの自然消滅は少ない。いつも別れる段階できっちり話をつけられる。静雄からは一切話を切り出すことはないので、決まって言うのは焦れた女の方だ。
 理由は様々だったが女の意思は尊重することにしているので、そうか、と言って煙草を咥えるだけ。怒りをぶつけられることもなく、こじれることもなく、あっさりした別れが多いのは突発的な喧嘩別れじゃなく予兆があってのことだったからに過ぎない。
 そして静雄は今日も新宿へ向かうのだ。



 居るか居ないか、確認したことはない。そもそも静雄はあの男──折原臨也の連絡先は知らない。辛うじて知っているのは、今向かっている新宿の事務所だけだ。どうせ普段から連絡を取り合うような仲ではないので、それでも特に不便がある訳でもなく過ごせている。
 臨也の方も静雄の電話番号から何から知ってはいるのだろうが、電波を通じて連絡を寄越したことはなかった。というより最初の一件以来、臨也が自ら声をかけてきたことはない。
 何故か別れ話は夜が多かったので、いつも通りのんびり暗い夜道をだらだらと歩く。通り道にあるコンビニで煙草を買うのも癖になってしまって、最初は静雄の金髪サングラスバーテンダーという悪目立ち甚だしい格好に目を丸くしていた店員も、慣れたのか何のリアクションもない。池袋のコンビニの店員では、だいたいの店のゴミ箱を投げたうえに静雄の評判を知り文句も言えずに一斉に顔を伏せるので、それはそれでやりにくい。
 やる気のない店員の挨拶に見送られ、そこから少し歩けば目当てのマンションに辿り着いた。実に快適な立地条件がいかにもあの男らしい、と、ここで最上階を見上げる度に思うが、別に羨望の気持ちも湧かず、そのまま目当てのインターフォンをゆっくり三度押す。いつの間にかこれが合図として定着した。
 無言で開く自動ドア。エレベーターに乗り込み行き先のボタンを指でなぞれば、あとは勝手に上まで運んでくれる。これに乗るといつも一瞬だけくらっと立ちくらみのような目眩に襲われるが、本当に降りる一瞬だけなので、もしかしたらそれも合図として静雄の身体に組み込まれているのかもしれなかった。
 エレベーターのドアを抜ければ、一人、ぽつんとドアに凭れる影が。
 こちらにはもう気付いているはずだ。インターフォンを鳴らした時からここで待っていたのだろう臨也は、毎回必ずこうしているのに絶対にこちらを見ない。
 この姿をもう何度見たのか、周りだけ切り取ったように季節が変わるのに、臨也はいつも似た服を着て同じポーズで立っている。何で外で待っているのかと尋ねたこともないので、その真意もわからない。
 もっとも臨也の考えてることで静雄が理解できたことなど何もないのだが。

 シズちゃん、お腹すいてない?何か飲む?と、語られる口調は静かで、何と答えようか少し躊躇い沈黙が落ちる。こうして訪ねた時の臨也の態度としては同じものだったが、今日は部屋の照明を一部しか点けていないせいで随分と月が眩しい。
 この部屋は天井から足元まで窓が大きく取られていて、高いところにある部屋の造りから、若干見下ろす位置に多くネオンが点在している。
 カーテンはなく、以前窓際に立ったとき吸いこまれそうな感覚に悪趣味だな、と思った。仕事柄、不用心なのではないか、とも。思っただけで口には出さなかったけれど。

 結局、暖かいミルクティーをゆっくりと飲んだ。拘っている訳でもないのだろうが、正当な淹れ方を踏襲しているらしいミルクティーは、確かに美味いが出てくるまでも時間がかかる。
 それを殊更ゆっくり飲むのだ。飲み干す頃には日付も変わろうという時間だった。
 カップをキッチンへ運ぼうとする臨也の手を掴み引き寄せる。割れてしまわないよう、カップは奪い取りそっとデスクに置いた。
 ソファに縺れながら倒れ込むと、壊さない程度に強く細い身体を腕に抱く。関節の尖った骨がぶつかる感触が懐かしい。けして柔らかくはない臨也の身体に触れるのは三ヶ月ぶりで。久しく感じなかった独特の甘い匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
 確認するように鼻先を鎖骨の浮き出た胸元に押し付けていると、また別れちゃった?と優しく尋ねられる。背中に回された手が緩く撫でてくるまま、続けて言葉が降ってきた。

 シズちゃんを振るなんて馬鹿だねえ。
 でも大丈夫。
 またすぐ誰か好きになってくれるよ。
 それまでの間は一緒にいるから。
 俺も今はひとりだから。

 静雄は優しくされたくてここに来たわけじゃない。それほど別れたことにダメージを受けてるわけでもない。
 確かに臨也の言う通り、いずれまた誰かと付き合うことになるだろう。来る者拒まず、去る者追わず主義なので特に困ったこともなかったし、自分から求めることもなかった。
 臨也は咎めない。誰とも付き合ってない間だけの関係なのだ。咎められる謂れもない。
 撫でられる背中はどちらともつかぬ鼓動と同じリズムで、暖かい。張り合うつもりじゃなく、同じように背中や身体のあちこちに唇を寄せる。
 最後に、長く生え揃った睫毛をくすぐったそうに震わせる、陶器じみた手触りの顔を覗き込めば、臨也はゆっくりと瞳を閉じた。

 全て茶番だ。



 パチっと、それこそ音がしそうなほどはっきり目を開くと、閉じる前には薄明るかった空が綺麗な青に染まっていた。
 身を置いているソファには角度的に日は差さない。ゆったりとしているが大の男が二人で横になるには窮屈で、仰向けの静雄の身体の上に抱きしめるように覆い被さって臨也が寝ている。細い、それでも一人の人間の重みが圧し掛かっていると微かに息苦しい。
 起こそうかどうしようか、迷って起こさない方を選択した。申し訳程度にかけられていた脱いだシャツがずり落ちていて、空調は効いているので寒くはないのだろうが何となくかけ直す。
 静雄は人肌で暖かかった。それと違って触れた肌は冷たく感じて、かけた服の上から腕を回す。
 少し視線を下げると、ピクリとも動かない臨也が静かに静かに寝息を立てていた。

 抱き合うのも三ヶ月ぶりだった。
 少し強張った身体を性急に開き、貪ったせいか臨也の眠りは深い。目の下にある浅い窪みは隈になりかけていて、会う前からの睡眠不足も伺えた。
 だんだんと眩しくなってくる室内に今日の仕事が休みじゃなくとも、ここにこうしていただろうかと考える。答えは否だが、可能性の問題だった。臨也とこうして過ごすのは決められた期間だけ。
 その間だけ優しくしようと思ったことはなかった。所詮、恋人じゃない、普段は忌み嫌っている男だし、そのスタンスは崩れることもない。
 でも人の肌と触れる感覚は気持ちがいい。隙間なく抱きしめていれば安堵すら覚えて、もっと、と、後ろ髪を引かれる。それが臨也と居る時に一番強く思うことに気付いたのは一年前くらいだ。
 気付いてもどうしようもないこともある。どうしようとも思わないことも、ある。

 ──例えばいつ訪れようとも臨也が誰とも付き合っていないこととか。

 光がじりじりと上がってくる。足はもう随分と暖かい。上へ上へ熱で溶かされながら光が身体をなぞる。その温度で解れたのか、身体の上の重みが身じろぎした。
 ぼんやりと開いた瞳に生気はなく、どこかまだ夢の中にいるようで。顔にはらはらと散った黒髪を掬い上げ耳にかけてやった。くすぐったいのか、緩く瞬くと少しづつ瞳に色が戻ってくる。
 静雄の胸の上へ耳を寄せる体勢にもそもそ動いて部屋を占める光に気付いたのだろう。呟いた声は寝起きで掠れていたが、ガランとした空間に殊更大きく響いた。
 カーテン買わなくちゃ、というありふれた言葉に何と返したか、後々になっても静雄は思いだすことができなかった。



 半年後、踏み入れた新宿の部屋には窓いっぱいに大きなカーテンが、世界を遮るようにかけられていて。

 臨也は外で待っておらず。
 こちらを見ることもなく。
 今、付き合ってる人がいるから、と言った。

 十分ゆったりとしたカーテンの合わせ目でその布に包まったまま。その僅かに光を通す布に包まれた臨也はほんの少しだけ光って見えて。
 ぽとりと臨也の足元へ落ちた水滴に気付くこともなく、静雄は眩しさに目を逸らした。



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