煩いのはそんなに好きじゃないけど、浮かれて騒いでいる人間を観察するのは嫌いじゃなかった。 薄暗い照明に、アルコールの臭気や煙草の煙で淀んだ空気。入った瞬間は少し息苦しさを感じたのに、興味深い観察対象がたくさんいて、あっという間に気にならなくなる。 会話の邪魔にならない程度の音楽はジャズがセレクトされていたが、店の雰囲気とはあまり合っていないことに思わず苦笑いが漏れた。 「臨也、飲み物取ってくるから」 「アルコールなら何でもいいよー。ありがと、ドタチン」 人混みを縫うように門田が奥のカウンターへ向かう。 残された臨也は、情報として頭に入ってても滅多に自分から足を運ぶことのない空間を満喫するべく、その辺のスツールに腰掛け人を眺めることに専念した。 若い年代中心に人が入っているこの店は、最近出来たばかりだ。特に嫌いな訳ではないが、普段は用事でもない限り足を運ぶこともない。 それでも今回おとなしく座ってこの場所にいるのは、たった今、わざわざ飲み物を取りに行ってくれた門田の誘いがあったからだ。 左官の仕事で、この店の内装を一部担当したらしく、報酬とは別にプレオープン間のフリーパスを貰ったのだそう。ターゲットの年代層だったおかげか、友達も誘って来たらいいと半ば無理矢理押し付けられて困った門田が臨也に打診してきた。 当然、臨也より先にいつも一緒にいる狩沢や遊馬崎も誘ったのだが、オールでアニメ上映会の予定が、とか、渡草に至っては聖辺ルリのファン交流会があるとあっさり断られたらしい。 常に面倒を見てると言っても過言じゃない立場のくせして、こういう時は振られてしまってる門田の人の良さを臨也は好ましく思っていた。 だから誘われたのにも二つ返事で頷いた。 けして、けっして、人から純粋に誘われたのが久しぶりだったからとかじゃない。断じて、ない。 しかし、完成してから間もないせいか人が多い。 口コミで高い事前評価が広まっていたおかげで、まさに芋を洗うような混み具合。空調もしっかりしてるはずなのに、人の熱気で暑かった。 仕方なしにコートを脱いで抱えると、両手にグラスを持った門田が人にぶつかりながら歩いてくるのが見える。 ぎゅうぎゅう詰めの間を抜けてるのに、グラスから零れた様子もなく平然と進んでくる。高いところに上る仕事も多いからか、門田はバランス感覚も優れているようだ。 「ほれ」 「ありがと」 受け取ったグラスには赤みがかった琥珀色の液体が注がれている。 顔を近づけ匂いを嗅ぐと柑橘系っぽい感じはするのに何だかわからなくて、ペロっと舌で舐めてみても甘いような水っぽいような、結局何だかわからない味しかしない。 雰囲気はいいけど、若者をターゲットにしてる方針だからかフードやドリンク類は手抜き感が漂っていた。 「悪いな、付き合わせて」 「んー?いいよいいよ、俺とドタチンの仲じゃーん」 「そうだ、それ。お前この間狩沢に会ったとき同じセリフ言ったろ。あいつはちょっと妄想逞しいところがあるから余計なこと言うな」 「あはは、確かに騒がれたけどいいじゃん!俺とドタチンの仲だからね!」 「お前ってやつは本当に……」 ──ちょっとドタチンげんなりした目で見ないでよ。 呆れたのか、長々とため息を吐いた門田は、会話自体を放棄してグラスに注がれているビールを喉を鳴らして飲み始めた。 なんで同じビールじゃないんだ、何だかわかんない飲み物よりかは安っぽいビールの方がマシだった、という言葉はグラスを傾け一緒に飲み込む。水っぽい気がしたけどそれなりにアルコール分は強いのか、空っぽの胃に到達すると吐き出す呼気まで一気に熱くなった。 チャットに夢中になって朝方まで起きていて、少し転寝したら待ち合わせの時間になりそうだったから慌ててシャワーを浴びて。 普段から食事よりも身支度の方が優先順位は高いので、シャワーだって時間がかかる。 血行を良くする為にマッサージだってしたいし、本当は湯に浸かって新陳代謝を上げたい。髪だって時間をかけて洗いたいのだ。 風呂の時間が自分よりも長いなんて気持ち悪い、と白い目を向けて言っていた波江も、最近触発されたのか、臨也が風呂上がりに飲んでるコラーゲンを勝手に飲んでるの知っている。 あのコラーゲンは臨也が吟味して選んだ、そこそこに値が張る品物だが、優秀な秘書兼助手に敬意を払い咎めることはしない。 そんなに口数の多くない門田に一方的に話しかけながら、二人で飲むこと数十分。途中から完全に飲み物運搬係になってくれた彼から、何杯目かもわからないグラスを受け取る。 試すように色んな酒をチャンポンで飲んでいたので、そろそろヤバいと感じていた。 「飲み過ぎじゃないのか」 「こんなに楽しいお酒の席は久しぶりだからねえ!やっぱり誰かと一緒に飲むのはいいものだよ。美味しくはないけど」 「本音、出てるぞ……」 言われた通り、確かに飲み過ぎだ。 今更遅いとも思うが、テーブルに半分ほど飲み残したグラスを置く。 「少し歩いてくる」 大丈夫なのか、と声をかける門田に、心配しないよう言い含めフロアに足を滑らせる。 ついでにコートも預け、今度は荷物持ちとして扱われているのにも文句は言われない。基本が優しい男なのだ。 少し、足元が覚束ないけど大丈夫だろう。まだ意識はしっかりしてるし、何より本当に臨也は少しハイになっていた。 酒はストレス発散って一理ある、と思いながらフラフラと人波を縫った。 人の顔は判別できる程度の照明の中、池袋に立地しているのに堂々と歩いていても臨也だとバレないのが、こういう店の利点だ。 みんな自分の楽しみを追うので手いっぱいで周囲のことに頭が回りにくくなるのだ。それもまた楽しかった 数分ごとに明るさの変わる照明、酒が入って浮かれる人間、会話を耳に入れながら人と人の間を抜けて少し酔いを覚まそうとレストルームに繋がる通路に踏み込んだら、いきなり背後から腕を掴まれ視線が宙に浮いた。 「何やってんだ手前」 「……シズちゃん」 後ろにひっくり返りそうなるのを堪え振り返った先には、相変わらずの顰めっ面に煙草の匂いを漂わせた、パッと見バーテン。 本当はただの池袋最強こと平和島静雄だった。 通路はホールの中よりもさらに薄暗く、ホールのライトを背負って立つ静雄は逆光でいつもより倍増しで人相が悪い。 だいたいそのサングラスがいけない。黒じゃないだけマシなのかもしれないが、どっちにしろその風体でセカンドバッグを小脇に抱えてたら、どこから見ても立派なチンピラだ。 チンピラにしては少し見目が良すぎるけれども。 「何って、ドタチンと飲んでる」 「門田?」 「フロアの奥のとこに居るけど会わなかった?てゆーか、シズちゃんこそ何してんの?あんまりこういう所って好きじゃないでしょ。それと手、離して。痛い」 似合う似合わないとは別にして、名前の通り平和で静かに暮らしたい静雄は、騒がしいところより家で静かに寛いでる方が好きだろうに。呆れ半分の酒臭い溜息も出てしまう。 しかもわざわざ臨也を見つけて無視できないあたり、本当に平穏な暮らしを望んでいるのか謎だ。 何を考えているのか、アルコールの臭いをぶつけられ押し黙った静雄に、掴まれた腕はそのまま、ぐい、と横に引かれた。 バン、ガン、ダン。擬音で表すならそんな連続音の間に視界が急に明るくなり、アルコールでふやけた頭がくらりとぶれる。チカチカと目の奥で白く光が点滅して、ホワイトアウトでも起こしたように、視力を一瞬奪われた。 同時に背中が痛む。 明るい、白色の蛍光灯の下で、覆い被さるように見下ろしている静雄に壁に叩きつけられたのは状況から把握したけど、何がしたいのかはさっぱりだった。 「……っ!痛いんだけど、って!もう!あー!ちょっと袖口伸びたじゃん!高いんだから雑に扱わないでほしいね!」 「きゃんきゃんうるせえ」 「何それ。シズちゃん目ぇ腐ってんじゃないの?きゃんきゃんとか犬じゃあるまいし俺は日本語で会話してるつもりだけど?」 「あーあーうっせー」 ひゅっと空気を切る音が聞こえた、と理解する間もなく、頭蓋が割れるような衝撃で意識が遠くなる。 これはあれだ。前にも一度不意打ちでやられたことがあるからわかる。デコピンだ。 「…………!」 今度こそ言葉もなく悶えるのを、やっと静かになったなと零しながら満足気にドヤ顔で佇む静雄は馬鹿だと痛感する。馬鹿じゃなかったら、身体と違って脳の発達は幼い頃で止まってしまったのだろう。 ──君のデコピンには殺人級の威力があることを知っておいた方がいい。 常日頃から臨也を殺すと散々言ってるのだから、対処としては間違ってないが。 くらくらと、保とうとしても揺れる頭を押さえながら、入ったドアの上にある緑色の光を確認。どうやら通路沿いの観葉植物の影にあった非常口に連れ込まれたらしい。 フロアや扉を隔てた通路は、淡いぼんやりとした照明で構成されていたけれど、さすがに非常階段のあるスペースは違う。煌々と光る白色灯は見え辛くさせていた影を吹き飛ばしたかのように、静雄と臨也の姿をはっきりと照らしだしていた。 壁際で高い上背に阻まれ、痛みに若干涙目のまま静雄を見上げれば、悶絶してる臨也を覗きこんでいたらしく真正面から目が合った。 うおっ、と変に上ずった声で一歩だけ後退り、それを誤魔化そうとしたのか禁断症状かポケットからクシャクシャになった煙草を取り出すのを臨也はバッチリ視界に捉えた。 反射的に同じくポケットからある物を取り出す。 「ちょっと。はい」 「…………おう」 「もう、シズちゃんいい加減にしてよね。腕も背中もおでこも痛いしさあ」 「……そうか」 「そうだよ!俺だってプライベートだし?シズちゃんと喧嘩する気なんてなかったの。無視すればよかったのに」 だいたい何なの、いい大人がスルースキルもないの? ごちゃごちゃと並べ立てた臨也を遮るように、そこでフーっと長く煙を吐き出した静雄は、差し出された携帯灰皿に煙草を挟んだ節ばった手を伸ばし灰を落とした。 トントン、と灰を振り落とす仕草も手慣れたものだが、反対の手でさりげなくサングラスを外すのも様になっていて、臨也は少しムッとしてしまう。 その無意識に垂れ流す男の色気が、自分では絶対に出せない種類のものだというのが悔しいわけじゃない。けして、ない。 ──それよりも、サングラスの収納先が気になる。 「また!この間も割ったじゃん。学習能力ないの?」 出して出して!と催促すれば、胸ポケットに差し込んだサングラスを、まるで予想していたかのように臨也に向かって突き出した。 代わりに持っていた携帯灰皿を押し付けて、そのセンスだけは褒められたサングラスを、尻ポケットに突っ込んだままだったセミハードの眼鏡ケースに慎重に仕舞う。 それは臨也が伊達眼鏡用に持っていたケースなのだが、最近は滅多に出番のない眼鏡は事務所のデスクの引き出しに入れっぱなしだ。そっちは持ち運びの必要がないので、埃が被らないように大ぶりのハードケースに入れている。 臨也が手にしている、静雄のトレードマークとして挙げられるほどのサングラスは、大事にされてることはされている。 それでも仕事や普通に池袋を歩いてるだけで絡まれることが多いので、胸ポケットに軽く入れただけでは滑り落ちる。そして勢い余った静雄の足で踏み潰されること数回。 安くはない買い物を何度もするくらいなら、いい加減学習したらいいのに、と言うのはすでに諦めている。 ケースにしっかり入れた状態で、静雄の胸ポケットに再び戻した。ついでに変な向きに曲がってるネクタイも直す。 その間もぷかぷかと健康に悪いだけの煙を吐きながら、臨也のすることを静雄は黙って見ていた。 一通り終わって、よし、と思わず口から出して満足した臨也は、自分がさっきの静雄と同じくドヤ顔をしていることにも気付けなかった。クッと肩を震わせた相手に初めて自覚し、瞬時にアルコールのせいじゃなく顔が赤らむ。 「……笑うなよ」 「笑うだろ、普通」 「あーあー、シズちゃんがだらしないのがいけないんだって!ここに灰皿なんてないのに煙草吸おうとするし!」 自分のやったことに対して今さら羞恥心が湧き上がって、照れ隠しに何度も髪を梳く。指通りのいい髪は枝毛も痛みもない。それは毎日ケアしてるし、トリートメントだってまめにしてるからで、でも、今考えるべきはそんなことじゃない。 ──俺こそ、いったい何をしてるんだ? 「灰皿ねえのなんてなぁ、最初っからわかってたっつーの」 「はああああ?じゃあ吸わなきゃいいんじゃないの?やだやだ、これだからニコチン中毒は困るんだよねえ!それとも何、シズちゃんのくせに床で踏み潰す気だったとか言っちゃう?」 「んなわけあるか。何だよ、俺のくせにって」 そこまで言っても面白げな表情を崩さない静雄は、携帯灰皿の奥に煙草を捻じ込むと、きちんと蓋をして目の前でヒラヒラとそれを振ってみせた。 嫌な予感しかしない。 きっと突っ込まれることは予測済みだ。臨也だってさっき自覚したんだから、やけに偉そうな態度の男が気付いてないわけがない。 「手前、結構前から灰皿持ち歩いてるよなあ?いつから臨也くんは喫煙者になったんだっけ?ああ?」 「…………」 「最近じゃあこれも付いてくるようになったしなあ?」 そう言って、トンと胸ポケットを指でノックした。 「……別に、たまたま持ってただけ」 「たまたまねえ」 口角を上げニヤリと笑う静雄に反して、臨也はどんどん無表情になっていくのを感じていた。 アルコールはもう殆ど抜けてしまっている。いつも言葉で追い詰めるのはこちらの専売特許なのに、立場が逆なのと言い逃れできない羞恥から肌に熱だけが集まる。 無表情で隠しきれない、その温度が恨めしい。 言い訳をさせてもらえるなら、静雄が悪いと言ってやりたい。 いつだったか、携帯灰皿を忘れて街中で他に灰皿も探せず苛立っていたこの男が「とりあえず殴らせろ」と絡んできたのが始まりだった。 ごきごきと、ありえない音を立てて指を鳴らす鬼の形相に久々に捕まり、ボディに一発、顔面に一発、直撃は避けて逃げたものの青痣と出血は避けられなかったのだ。 ほうほうの体で事務所に戻り、波江に言われた「……汚い顔」にプライドを傷つけられ、あんな理由で殴られるくらいならと安物の携帯灰皿を常にポケットに忍ばせるようにして。 ちなみに眼鏡ケースも全く同じ理由なのが、臨也の学習能力も鈍っていたと言わざるをえない。 それから、睨みあって静雄が煙草を口から外せば臨也が灰皿を差し出す、という構図が出来上がったわけで。 「誰も持ってないなんて言ってねえけどな」 「はい?」 「俺だって毎回忘れてるわけじゃねえよ、灰皿」 そう言えばそうだ。 先手を打とうとする余り、静雄は持ってないと断定していた。その前から外見に似合わず気にして持ち歩いていたくらいなのだ。むしろ、忘れた方が偶然だったはずで。 「手前がよ、そーゆーことすんの。なんつーか……変な気分になる」 眩しいと感じていた光が遮られ、嵌っていた思考から抜け出せば随分近くに静雄の顔があって、ぎょっとした。 いつの間にか片腕で扉に近い方の壁を塞ぐように阻まれていて、もう片方の手が臨也のそんなに長くはない髪を戯れに引っ張っている。つんつんと何かを尋ねるように動く指は案外繊細に触れてきて、擽ったさに逃げ道もないのに身を捩った。 息を吸い込んだまま吐き出すことを忘れ、詰まった呼吸に消えたと思ったアルコールが浸透していく。 そーゆーことって、と言ったつもりが、吐き出せたのは酒臭い震えた吐息だけで。 「灰皿持ち歩いたりとかよ、さっきみたいなのされると目の前ちょろちょろしててもムカつかねーんだよなあ」 髪をいたずらに撫でていた指が今度は前触れもなく臨也の唇をなぞり、かさついた感触に自分の唇も乾いていると知らされた。 熱心に撫で摩られるうちに、こくりと喉が鳴り、飲み込んでも飲み込んでも唾液が溢れて、それすらも唇に塗り込められる。少し力を込められただけで、くにゅりと唇に指が沈み込むのが酷くいやらしい。 静雄の目線は唇に向いていて、伏し目がちなそれが酷く艶めいて見えた。 そんな空気に飲まれてしまって、だんだんと唇から全身に痺れが伝わり、はふはふと変な呼吸音しか出ない。 脳に酸素がいってない気がする、酸欠か、と舌が思わず出たところに、予想はしていたけどそれ以上の激しさで静雄の唇が塞いできた。 ──正直、期待してなかった、と言ったら嘘になる。 無意識に静雄に尽くしてしまっていたことを理解した身体は素直で、唇が柔らかく触れ合うともっと欲しくてたまらない。そして触れて初めて、同性であるこの男と性的な接触を違和感なく受け止めている自分に気付き肌が粟立った。 混ざった煙草と酒の味が息苦しくて、目尻に生理的な涙が浮かぶ。 やっぱりアルコールでふやけていたのか、粘膜を強く擦り合わせられただけで抵抗もなく簡単に気持ちは快楽に持っていかれた。 うわ、すごい。気持ちいい。 頭を過るのはそればかりで、唾液を啜られながら舌も一緒に食まれると、それすらも考えられなくなる。 「……は、んんっ……!」 「酒、くせ……」 何度も吸われ、舐めしゃぶられ、唇が離れても指で舌を摘まんで愛撫されながら、どんだけ飲んでんだと耳に口を当て囁かれ腰が砕ける。 足の力が抜けガクガクと膝が揺れ、立っているのが辛い。 「……手前が悪い。世話女房みたいなことして期待させっからよお……」 ──ああ、こいつ俺のもんなんだなって思うじゃねーか。 言われながら支えるように腰に当てられていた手が少し角度を変え、尻の肉を服越しに強く揉まれ、さすがに驚いた。 昔から派手な噂が飛び交っているのは自分でもわかっていたが、本当のところ臨也には女性との経験はあっても同性と性行為に及んだことはない。それでも臨也ならともかく、そういう行為に疎そうな静雄が躊躇いもなく行動に移してくるのが期待を通り越して、少し怖い。 「シ、シズちゃん、俺とセックス、するの?」 「する」 返しが早すぎる。耳を噛みながら喋らないでほしい。 やる気に溢れている男をどうやってかわそうか回らない頭で考えようとしたら、唐突に携帯の着信音がコンクリートに囲まれた空間に反響した。 その音に呆けた頭に冷や水を浴びせられた気分になり、まだ肩口に静雄の顔は乗っていたが慌てて通話ボタンを押すと、心配そうな響きで臨也の名前を呼ぶ門田の声が。 「ドタチン……あ、トイレに行っててさ、うん。……大丈夫」 耳元で舌打ちが聞こえた。至近距離の舌打ちは相当大きく鼓膜を震わせるが、次にその鼓膜を舐められているかのように、ぐちゅりと細めた舌を耳の穴に差し入れられ変な声が、出た。 「ひ、やっ……!」 門田の声で現実に戻された思考は一気にまた引き戻され、ぎゅう、と、目を瞑ってそれ以上声が漏れないよう耐える。 それが面白くないのか、下がった静雄の掌が不穏な動きを見せるのに、急いで残った理性を総動員して電話口に向けて話をつけた。 「なんでもないっ…!あのさ、やっぱりちょっと酔ったみたいだから先に帰る……コートは、今度取りにいくから悪いけど持ってて」 確か、大事な物は何も入れてないはずだ。 不審気な様子で、それでも了承した門田との通話を切りホッとしたのも束の間、流されないうちにと静雄の袖口を掴み、くいくいと引っ張り注意をこちらに向ける。 「……んだよ」 ぶすっとした態度を崩そうとせず、静雄がこちらを見る。その目力の強さに押されてはいけない。 臨也の脳も身体も溶けてぐずぐずと火照りを持て余してしまっているが、最後の最後で踏ん張り、本能のみで動こうとする目の前の男をなんとかしなければ。 だって場所が悪い。ここじゃ、落ち着けない。 「シズちゃん、なんでここに居たの?」 「……プレオープンの間だけ、ヘルプ頼まれた」 今日は店開く前から入ってたからもう終わった。じゃなきゃ、こんなことしてねえだろ。 ばつの悪そうに少し早口で言う静雄は、それでも離そうという気はさらさらないらしく微妙に狭まっていく腕の檻に焦り、降参の意味も込めてタップする。 「ここ、上から外出れる?」 「ああ?……別のテナントまだ入ってねえから鍵開けっぱなら出れる」 「じゃあ行こう」 絡みついてくる腕ごと移動しようと、力が抜けた足を無理に動かした。 反動か階段を上る途中でふらつき、斜めに傾いた臨也の腕をしっかり掴んだ静雄は、段差で今度は見上げるかたちになった欲に濡れた赤い目を捉え、今までの勢いは何だったのか躊躇いがちに尋ねてきた。 「いいのか?」 馬鹿だなあ、と思った。 本当に馬鹿だ。いいのかも何も、臨也はもうスイッチが入ってしまっている。 男の性とはいえ昂った熱は発散しないと暫く燻ったままだし、何より目の前の男の色気に当てられて、今から静雄といやらしいことをするのだと考えただけで下肢がうずく。実際、下着は濡れてしまっているので、その不快感すら敏感に快楽と受け取るほど、身体も気持ちも急いていた。 同じ気持ちでいるだろう男が、それでも「いいのか」と訊いてくるのは焦らされているもどかしさと同時に、大事に扱われている気がして満更でもない。 湧き上がってくる感情のままに笑みを浮かべながら、挑発するように唇が触れるか触れないかギリギリのラインまで顔を近づけ尋ね返した。 「やだって言ったら、やめるの?」 言って、ちゅ、と下唇を軽く吸った。 ゴクリと唾を飲む音がして、やめない、と掠れた声。間近で見る静雄の目の中には、蕩けた顔をした自分しか映ってないのを確認して当たり前なのに満足する。 掴まれた腕をそっと外すと、今度は自分から静雄の手を引いた。 大事なことは何も口にしなかった。 この熱が冷めて、それでも何か残ったら。 その時は改めてこの男に捕まる覚悟を決めるしかない、そう、心の中で苦笑しながら非常口のドアを開け、夜の池袋に一歩踏み出した。 ←back |