宵闇テレプシコーラ 3 「今日、源田の家泊まるから。」 そう佐久間が言った瞬間、俺の思考は停止した。 フリータイムを全部使い切って、外に出たときは既に先ほどよりもとっぷりと日が暮れていた。 現在他の県に住んでいる佐久間に、辺見が「どうやって帰るんだ」とそう問うた時の返答だった。 そんな約束は、していない、断じて。 そもそもこの2年連絡一つとっていなかったし、さっきだって凄く微妙な雰囲気だったはずだ。 一言もそんなことは聞いてない。 驚いて立ち止まる俺の腕を佐久間が掴む。 褐色の、艶やかな指が俺を誘うように蠢いた。 「な、源田。いいだろ?」 そうしてそのまま、佐久間は俺の家にやってきた。 佐久間の唐突な我儘を拒否出来ない俺は今も昔も相変わらずだ。 久しぶりの佐久間の来訪に、母は驚き、喜ぶ。 「男前になったわね、次郎ちゃん」などと、歓喜の声を上げて佐久間と何やら暫く話しこんでいた。 何故か母受けがいい佐久間も、母と楽しそうに話している。 そういえば中学の時も唐突に「今日泊めろ」とかなんとか、そういうの、よくあったな…。 母と会話する佐久間に一声かけて部屋に戻る。 そのままいつもの定位置に鞄を置く。 制服から着替えることもなくベッドに座って、どうにも、ぐるぐるとする思考を吐き出す。 「源田の所為」といった。 それは一体どういうことかと思った。 何かした心当たりなど、正直なところない。 そしてそれは確かに冗談だったのかもしれない。 けれどそのときに揺れた瞳がどうしても気になって、気になって仕方ないのだった。 冷静であれ、と常日頃から心がけているものの、佐久間のことになると昔から、どうしても冷静でなどいられなかった。 綺麗なあの髪を、佐久間は切ってしまった。 イメチェンでも何でもなく、何かあって。 そしてそれは、俺の所為。 繋がらない何かが酷くもどかしく、そして心当たりのない自分が情けなく、無性に腹が立つ。 ぼんやりと、ただぼんやりと。 自室の見慣れた床の一点を見つめながら、どれほど物思いにふけったのだろうか。 がちゃり、と音がして、部屋のドアが開く。 「源田、お前何してんの。」 「佐久間、」 それを行った人物は、今の思考のほぼ全部を持っていかれている相手、佐久間次郎そのものだった。 急に唐突にだったから、着るものがなくて母親が出したであろう俺のジャージを身にまとっている。 少々大きいのか腕まくりをしたその姿。 肩にはタオルがかけられていて、その短い銀糸はしとどに濡れていた。 多分母が風呂をすすめたので頂戴した、といったところだろう。 まだ上がりたてて、褐色の肌でもわかる上気した肌は、少しだけ赤かった。 まるで自分の部屋のようにずかずかと何の遠慮もなしに入り込んでくる佐久間に苦笑する。 そのまま俺が座っていた、中学時代となんらかわらないポジションに座りこむ。 少しだけ背の高くなった佐久間の重みで、ベッドが揺れた。 「つか、着替えないの。」 「すまない、ぼーっとしてた。」 「いや、謝られても。それにしても…」 と言葉を切りながら、佐久間はその大きな目で俺の部屋を見渡す。 壁、天井、床。 ひとしきり顔を動かして見た後、呟くように言う。 「全然、変わってないのなー…」 そしてこちらを向いて、酷くにこやかに、穏やかに微笑む。 一言「安心した」といった時の佐久間の顔は、本当に綺麗だった。 懐かしいものをいとおしむように笑うのだった。 「源田の部屋が彼女の趣味とかで作りかえられてたりしたらどうしようかと思った。」 そう言って、今度は悪戯っぽく笑った。 「彼女なら今はいないぞ」と真面目にそう返答してやると、今度は可笑しそうに笑う。 「”今は”ってことは前はいたんだ。」 「…まあ、な。一応健全な男子高校生だからな。別れたけど。」 「源田の癖に生意気だな。」 今までの2年を埋めるかのように、近況や、他愛もない話をした。 2年経って、お互いが変わってしまって。 話題なんて、直ぐに詰まるんじゃないかと思っていた。 でもそれはとても不思議なもので、そんな心配はいらなかった。 溢れるように次々と言葉を紡いでいって、2年なんてものはそう大したものではないのではないのかという錯覚するほどに。 たった2年、されど2年。 俺たちは、変わらぬままだったのだ。 でもそれは、同時に俺に大きな疑問も抱かせる。 やはり先程のことが気にかかるのだ。 しつこい、と自分でも思う程、執拗に。 「ところで佐久間、」 「ん?」 「頭、そのままで寝るつもりか。」 そう指摘して、佐久間の短い頭髪を指差してやる。 これも昔から、癖が悪いのだが、佐久間は面倒くさがって、風呂上りに髪を乾かしたりなどしない。 泊まりに来るたびにびっしょびしょに濡れたまま、毎度寝ようとするのだ。 今回もそのままに、少しふてくされたような顔をする佐久間にちょっと待ってろ、と部屋を出る。 洗面所からドライヤーを持ってきて、後ろを向けというと素直に従った。 佐久間の、髪に触れる。 しっとりと濡れたその髪は、確かに佐久間のものだった。 わさわさと乱暴にかき乱しながらドライヤーを当てていくと、乾いて輝きを増す銀。 短い髪の下から、以前は絶対見えなかった項が顔を出している。 前は乾かすのに相当、時間がかかったが、やはり短いからか、すぐにそれは乾いていった。 「佐久間、」 聞こえるか、聞こえないかの声で問うてみる。 聞こえても聞こえなくても構わない。 ただ、でも聞きたかった。 「もう髪、伸ばさないのか。」 佐久間が、笑った気がした。 顔は見えないけれどそんな感じがした。 ただでもその笑みは、一体どういう意味が含まれているのか、それまではわからなかった。 「多分伸ばさない。」 「そうか…」 そう即答されてしまった。 表情が見えない分、それがどういうことなのか、悟らせてはくれなかった。 ただでも、その抑揚のない言葉は、俺の隙間にすとんと、落ちてきたのだった。 「もし、俺が髪を伸ばしたら、源田は…」 そう、聞こえた気がした。 佐久間がぽつりと、そう言った気がした。 酷く小さな声で、ドライヤーの轟音にかき消されてしまったその声の続きを、俺は聞くどころか、予測すらできなかったのだ。 . |