静かにさよなら










いつもは皆でわいわいと騒いでいた部室は酷く静まり返っている。
卒業式の後、なんとなしにこの部室に来てみたのだが、数ヶ月前に引退したばかりだというのにもう既に少し懐かしかった。
胸に刺さった赤い花が視界に入って少し目ざわりで、それがもう帝国学園を卒業したのだという現実を突きつける他はない。
楽しかったか、と聞かれれば楽しくないわけがなかった。
それはとてもかけがえのない月日であり、なくてはならない日常であったからだ。
確かにいろいろあった。
鬼道とのことや、真帝国学園のことや、サッカーが出来なくなったりもした。
けれど矢張りここが一番、自分の居慣れた場所であり、ここに来るのが当たり前だった日々が既に恋しくて堪らないのである。
無造作に置かれた机を指でつつ、と撫でてみるものの、矢張り実感なんてそう簡単に湧くものではない。
引退と卒業はまるで違う。
引退してもしょっちゅう遊びにこれたりするわけであるし、同じ学校内にこの場所が存在するわけなのだが、卒業すればそれは容易ではなくなるのである。
我ながら柄にもなく感傷に浸っている。
いや、浸ろうとしているのかもしれなかった。無理にそうすることで卒業という事実を受け入れようとしているのかもしれなかった。
全く実感が湧かないのである。


「佐久間、やっぱりここにいたのか。」


と俺があけっぱなしにしていた扉からいつの間にか中を覗いていたのは源田だった。
こいつとはなんだかんだで腐れ縁で、多分一番よく話したような気がする。
だからこそ俺の行動パターンが筒抜けなのは有り得る話で、それが少し可笑しくて笑った。
多分なんで俺が笑ったかなんてわからない癖につられて笑う源田は相当なお人よしに違いない。


「成神たちがどこいったって探してるぞ。写真一緒に取りたいらしい。」
「写真?めんどくさ。そんなもんサッカー部の時腐るほど取っただろうが。」
「今日はやっぱり特別だしな。分かってやれ。あいつらも寂しいんだろ。」


佐久間後輩に好かれてるしな、と続けて源田は懐かしそうな顔をした。
源田はもう、『今日が卒業式である』という事実が呑み込めているのだろうか。
いやでもきっと実感は全くないがきっと俺も同じような顔をしているんだろうとは思う。
矢張りいろいろ詰まったこの部室は特別で、どうしても抗いようがない程大切なものなのである。
自分にとっても、源田にとっても、他の奴らにとってもきっとそうで、そうであればいいと思ってしまうあたりこの部屋が好きすぎるのだ。
匂いだって何一つ変わらず、ロッカーには未だにもう引退した俺たちの名前が貼られていた。
三年前は白くて綺麗だったそのネームシールは今はもう黄色く茶色く変色していて、まだ全然若いのに歳を感じる。
三年もずっとここに通い続けて、サッカーで盛り上がって、あほなこともしたな、と思うとなんだかこみあげてくるものがあった。
溢れさせるのは簡単だが、なんだか溢れるそれを抑えてしまいたかった。
漏れてしまえば実感せざるを得ない。
また新しいところに行かなければならないのだ。
きっと、高校に行っても、またここと同じような場所が出来るに違いない。
けれどそれが今は嫌で仕方がないのだ。
有り得ないことなのである。
何気に愛着があるこの部屋が来年からまた新しい後輩が入ってきてにぎやかになっていくのは分かっている。
自分のいない空間と言うものはそれは仕方ないものではあるのだが、もう中学のあの頃は戻ってこないのだと思うと異様に執着したくなるのだ。
もうここであいつらと騒ぐこともないのだな、と思うととても晴れ晴れしい気持ちにはなれそうもない。
そんなことを考えていると源田がそっと近寄ってきた。
なんだまだいたのか、ともう源田の存在もあいつらに入るのに、勝手にシャットアウトしていたようで、なんだかとても失礼である。
源田の胸にも赤い花が刺さっていて、その赤がどうしようもなく憎らしい。
戻れればいいのに、となんとも女々しいことを考えつつ、けれどそれは全く不可能なことなのは知っている。
けれどそれほどまでに楽しかった日常がどんどん色褪せて失われていく様は矢張りとても寂しいことなのだと思った。


「源田、先に行っててくれないか。」


折角探しに来てくれたというのにその言い草はなんだ、と自分でも思うが、けれどそうしなければなんだか揺らぎそうだった。
卒業するということが重くのしかかって、またあいつらと馬鹿するときに今この瞬間に振りきっておかなければ引き摺りそうだとなんとなく思う。
なんだかんだで思いこみが激しい方だと自分でも自覚しているし、どうせならすっきりと去りたいものであった。
俺のその言葉に源田は何も言わず少しだけ間を置いて「わかった」と返す。
そしてそのまま踵を返し、後ろを向く。
なんだかんだでサッカーをしているときは源田に背を預けることが多かったから、源田の後ろ姿を見るのはなんだか不思議な感覚だった。


「ああ、そういえば佐久間。」


そう言って源田が振り返った。
いつも後ろにいて得も知れぬ安心感があったあの目で此方を見ている。
そして俺を見ながら、微笑みながら言うのである。


「卒業おめでとう。」


それはお前もだろうとか、今言うことじゃないだろうとか、反則だろうという言葉を押し込めて、溢れそうなものが堰を切ってあふれ出た。
あふれ出たとそれは止め処なくて、こぼれてしまって仕方がない。
どうしようもないものがどんどんと溢れてああ、卒業なのかという実感がやっと湧いた。
らしくない、と思いつつもこの想いはどうやってもなくなるものではなく、少し驚いたようで、けれど優しく笑う源田の上着の裾をぎゅっと力強く握った。






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