安心安定治療薬









鬼道くん。
俺の名を呼ぶ声が微かに震えているような気がして、はっと振り返るとけれど予想は外れ。
いつも通りの不動がそこに突っ立っていた。
木の影になっていて表情は分かり辛いが、けれどしっかりと二本の足を地面につけて、立っていたのだ。


「鬼道くん、」


そして俺は既に不動を見ているのに、その筈なのに、不動はまた俺の名を呼ぶ。
何か一言返してやればいいものを、俺はただ不動を黙って見つめるばかりである。
何か矢張り普段とは違う気がして、近寄るべきか、否かと問答を頭の中で繰り広げるが、答えは一択しかないことはわかりきっている。


「…なんだ、不動。」


やっと出た声は震えていて、慎重に出したとはいえなんと情けないことか。
その言葉は不動に届いたか、いやきっと届いているのだろう、不動は黙って太陽に不釣り合いな白い腕を片方、すっと前に出した。
一歩、その腕を掴める距離に近付く。
その腕をひとおもいに掴んでぐっと引っ張ると、確かに地に足をつけているはずである不動は軽く、いとも簡単に前に倒れた。
こうなることがわかっていたにも関わらず、慌てて不動の腕から手を離し、今度は体を支えてやる。
まさにされるがままに不動はぐったりと倒れ込み、その肩をぐっ、と持った。
そしてそのままそれすらも離し、完全に俺の体に体重を掛ける格好になったところを抱きすくめてやる。


「どうした。」


そこで今度はしっかりと、不動にそう問う。
こういうとき、不動よりかは幾分、身長が高くて良かった、と思う。
不動はやっと、だるそうに、けれどすりりと擦りよった。
それは気まぐれな猫のように思えたが、多分本質的なところは全く違うだろう。
そして大きく溜め息をつき、「なんでもない」と言った。
あんなにも人の名前を呼んでおいてなんでもないとはどういうことか。
けれど言葉とは裏腹に背中にそろそろと伸びてくる手は確かに、こうなることを望んでいたかのようだった。
そして力いっぱいぎゅうぎゅうとユニフォームを捕まれてしまう。
何かを我慢しているのかなんなのか、不動が考えている全てを把握出来るほど、俺は優秀ではない。
けれど今はこうしてやるしかできないということと、こうしてやるのが最善だ、ということだけはわかる。
よしよしと頭を撫でてやると一層擦り寄り、距離はもう当にない。
偶に、あるのだ。
酷く甘えてくるときが。
抱きついて離れなくなる。
それがなんであるかは大体予測はしていたのだが、けれどそれをそう、と断定するのは不動に大して失礼な気もしている。
だからこうやって存分に甘やかしてやるのである。


「…くそ、」


小さく悪態をつくものの、けれど離れようとしない不動の手は何かから逃れるように、もがく。
もがけばもがくほど、絡まるそれが、不動には見えているのだろうか。
付き合うようになってから、こうして弱い部分を見せてくれるのは嬉しいのではあるが、けれどそれを不動が負い目に感じていないかが不安である。
「大丈夫か」と声を掛けることは容易い。
けれどそれは己の不安感を安定に持って行く為だけのものであり、不動には重荷だろう。
だから何も言わない。
受け止めてほしいならどれだけでも受け止めてやる。
そしてそれだけしか出来ないことが、俺は歯痒い。


「鬼道ちゃん、」
「なんだ?」
「いる?」
「ああ、いるぞ。」


そうぽつりと当たり前のわかりきったことを言って、不動はまた一層、縮まる距離なんてありはしないのにそれを縮める。
それを俺もより一層縮めてやり、「好きだ」とそう、不動に告げると不動は何も言わなかった。




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